表紙

 お志津 52 いざ故里へ



 寛太郎には、まだ学生生活が残っていた。 だから、一足先に故郷へ戻る婚約者の志津には、花嫁修業の期間ができたことになる。
 といっても、相手の家は親戚筋だし、同じような大地主なので、生活の仕方は似たようなもので、特に修業などしなくても困ることはないはずだった。
「寛太郎は婿というより、うちの息子として扱う」
 父の義春も、常々そう口にしていた。 両家の土地は一部隣り合っているため、将来は一つにして、管理を任せるつもりなのだ。
「寛太郎はしっかりしているよ。 少なくとも、わたしや甲斐介〔かいのすけ〕よりはな」
 これが義春の、もう一つの口癖だった。 一族の長としての義務をなおざりにして、作家になってしまった自分と、おっとりして人のいい又従兄弟とを自嘲する言葉で、志津はあまり好きではなかった。
「甲斐介おじさまは、立派な人よ。 お父様だって、一族の人たちの相談に乗ってあげてるでしょう?」」
「そりゃ、頼まれれば話は聞くが、あまり役には立てない」
 父は、いつもそう答える。 それが志津には歯がゆかった。
「お父様だって立派よ。 威張ってばかりで人の話なんか聞かない大人が多いんだから」
 帰りの列車の中で、また議論になった。 父は眉を吊り上げて、興奮している娘を眺めた。
「なんでそんなことを知っているんだ? 大人の男と付き合いなんてないだろう?」
 からかわれているのがわかって、志津はつんとした。
「友達から聞いているの。 彼女たちのお父様方には、けっこう横暴な方がいるのよ。 気に入らないと、奥様を足蹴にしたり」
「ああ」
 義春の顔が曇った。
「気まぐれに女子供を殴るなど、男の風上にもおけんな」
「話を聞いて悔しかった。 お父様もお兄様も、絶対にそんなことしないから」
 兄の定昌の話になると、志津は過去形が使えなかった。 思い出の中で兄はますます美化されて、あたかも天使のようになっていた。
「でもわたしだって、おまえを叩いたことはあるぞ」
 志津は思わずにやにや笑い出した。
「川に盥〔たらい〕で漕ぎ出したときでしょう? 一寸法師の真似をして。 あれは私が親でも叩きます。 命にかかわることだもの」
「まったくだ。 まだ三歳で、泳げもしないのに、何という無鉄砲な」
「そういう性分なんです。 生き延びているのは、お父様お母様が本気で叱ってくださったおかげ」
「おや」
 父は目をしばたたいた。
「今日はいやに素直だな」
「いつだって素直ですよ」
 志津はけろりとして答えた。
「親のありがたさが、少しずつわかるようになってきたの。 お父様これまでありがとうございます。 この後もしばらくお世話になります」
 父は苦笑して、志津のおでこをチョンと突っついた。
「一丁前の口をきいて。 まあ少なくとも、言葉遣いはずいぶん増しになった。 女学校に通わせた恩恵の一つだな」


 家では、母が志津の帰りを待ちかねていた。 背丈が伸び、そしてめっきり美しくなった娘を連れて、挨拶回りをしたり、芝居見物に行ったりするのが、楽しみでしかたがないのだ。
 志津は、帰宅早々、母からよそ行きの新しい着物を三着も貰って、びっくりした。
「え、こんなに? 衣替えの度に一着ずつ新調するのが慣わしなのに?」
「今年は特別」
 母はすっかりご機嫌だった。
「お志津ちゃんはどうしてますか、さぞ綺麗になったでしょうねって、あちこちで訊かれるの。 だから本当に美人になったことを、みんなに見せてあげたいのよ」








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