表紙

 お志津 50 憂さを忘れ



 隣の車両に乗っていた行商人夫妻が、息子につられてわざわざ移動してきて、近くに座ったので、志津は喜んで挨拶した。
「お久しぶりです」
「まことにご無沙汰して。 本当に逢えるとは思わなかったです。 せがれは絶対見つけると頑張っていましたが、こりゃあ幸先いい。 なあ、お徳〔とく〕?」
 母親に相槌を求めた後、父親は改めて斎藤嘉吉〔さいとう かきち〕と名乗り、今年の行商は順調だと嬉しそうに告げた。
「それにせがれも、お嬢さんのおかげですっかり算術が好きになってねえ、最近じゃ売り掛け帳の書き込みを手伝わせてるんですよ」
「まあ、すごい」
 志津は嬉しくなって、自慢そうな源太に微笑みかけた。


 寛太郎は自分から話に加わることはなかったが、志津に紹介されると気さくに頭を下げた。
 志津は彼を親戚と言っただけで、縁談の相手だとは明かさなかった。 これは嘘ではない。 確かに遠縁の親戚筋だ。 まだ女学校一学年を終えたばかりの年齢で、許婚と出かけてきたとは言いにくかった。


 新しく作られ、木の香りもさわやかな駅に降り立つと、もう風に乗ってお囃子〔はやし〕の音が聞こえてきた。
 源太はわくわくするかと思いきや、旅で祭りに行き慣れているためか、事務的な顔をして荷物を背負った。
「じゃ、おいら達は場所取りに行くよ。 地回りの人たちにも挨拶しなくちゃならないし」
 大人びた口調でそう言った後、降車口近くで少し遅れた志津に、つと寄り添って、小声で囁いた。
「お姉ちゃん、来年も会えたらいいな」
 それから、背中の荷物が飛び上がるほどの勢いで汽車から降り、一度だけ振り返って、はにかんだ笑顔を見せてから、親たちと並んで階段へ歩いていった。
 もう母親と手をつなぐ様子はなかった。 彼もこの一年で、ずいぶん独立心が出たらしい。


 寛太郎は何となくぐずぐずしていて、発車の笛が鳴って慌てて降りてきた。
 志津は彼の気持ちがわかった。 車両の中でずっと一緒だったので、祭りまで彼らのお供をさせられては困ると思ったのだろう。
「前に来たときよりにぎやかだね。 今年は大掛かりなんだ」
 そう志津が言うと、寛太郎は満足そうにうなずいた。
「今年は二百五十年の記念祭だそうだよ。 だから張り切って、出し物も多いらしい」
「それで誘ってくれたんだね?」
 巧みなお囃子と、盛んに行き交う見物客の群れに、志津も乗せられて陽気になった。 この世の憂さを忘れて、束の間の縁日を楽しむ。 そういう祭りの魔力に二人は溶け込み、行事満載の寺に向かって、軽い足取りで進んでいった。








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