表紙

 お志津 48 夏祭り前夜



 穏やかな夏だったが、一つ、特に印象に残る出来事があった。
 夏祭りがあちこちで行なわれる八月半ば、志津は隣町まで遠征しようと、寛太郎に誘われた。
「桐田市の祭りは大がかりで、露店もたくさん出るし、面白いよ」
 志津も行ってみたいのはやまやまだった。 だが、昼間ではなく、盆踊りが盛り上がる宵から夜にかけて誘われたので、少しためらった。
「近くならすぐ帰れるけど、二里離れた桐田だと遅くなる」
 すると寛太郎はバカにした顔になった。
「たかが二里じゃないか。 都会に出て足弱になったか」
「道の長さじゃないよ。 昼間は平気でも、夜は真っ暗になるもの。 提灯〔ちょうちん〕下げて夜中にとぼとぼ歩くのは物騒だ」
「だから女は」
 寛太郎は腕組みして、松の木に寄りかかった。 二人は彼の家に近い小さな野原で話していた。
「俺がついていくんだ。 夜の闇なんか怖くない」
 志津は吹き出した。
「ちがうよ、暗がりが怖いんじゃない。 親の目の届かないところに行きたくないんだ。 二人が心配する」
 寛太郎はそれでもまだぶつぶつ言っていたが、志津は構わず家路についた。


 翌日、両親と朝食を取ったとき、冗談交じりにその話をすると、父が思わぬ反応を見せた。
「かまわんよ。 誘われたなら行っておやり」
「えっ?」
 志津がびっくりしていると、父の義春は懐かしげに母と目を見交わした。
「お母様の父上はけっこう厳しくてな、誘い合わせて祭りに行った夜、この人は風呂場の窓から抜け出したんだ」
 母の咲は頬を染め、袂〔たもと〕で軽く父を叩いた。
「やめましょう、そんな昔の話は」
 父はにやにやしながら言葉を継いだ。
「道中が心配なら、帰りだけ迎えに行ってやろう。 陸蒸気は十時まで走っているはずだ。 あの駅からなら十五分で帰りつける」
「それならいっそ、お父様も一緒に行きません?」
 志津は熱心に誘った。 人数が多いほうが楽しいと思った。
 だが父は、また母と視線を交わすと、わさとらしい溜息をついた。
「寛太郎くんと二人だけで見物するのは嫌か?」
「別に。 でもカンタローは最近いらいらしてて、急に怒り出すから付き合いにくいの」
「そうか……」
 父は唸り、母の咲は溜息をこらえた。 娘はどんどん大人びて女らしくなってきたのに、気持ちは成長に追いついていないようだ。 志津は利発だから、おませかと考えていたが、実はおくてだったのだと、夫妻は思い知らされた。
「たまには少し冒険するのもいいじゃないか。 せっかく誘ってくれたんだ。 ただし、十時前に必ず汽車に乗りなさい。 駅で待っていてやるから」
「はい」
 あまり気が進まず、志津は生返事をした。








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