表紙

 お志津 46 夏になって



 月日は静かに流れ、志津は充実した学生生活を忙しく過ごした。
 あの訪問の後、晩春のころ、寛太郎がもう一度訪ねてきたが、そのときは敦盛が同行せず、本物の大人の男がついてきたため、前ほど楽しくなかった。
 彼は寛太郎の学校の補助教員だそうで、坂木〔さかき〕というヒョロッとした青年だった。 とてもおとなしく、いるかいないかわからないほど存在感が薄かったものの、やはり行動を共にするとなると気を遣う。 志津は気安く寛太郎をカンタローと呼ぶことができず、せっかく日曜日の華やかな銀座を歩いてアイスクリームまで食べたのに、退屈であくびが出そうになった。
 今度は休日なので、二人は山根家まで送り届けてくれた。 にぎやか好きな山根夫人の貴代〔たかよ〕は、いそいそと二人を招き入れて茶菓子など出していたが、彼らが礼を述べて帰っていった後、首をかしげて志津に言った。
「あの人たち、ずいぶん陰気だったわねえ。 おなかでも痛いみたいに」
 志津は笑いそうになりながら説明した。
「寛太郎さんは普段もっと明るいんですけど、今日は固くなっていましたね。 お目付け役の坂木さんがおとなしいからでしょう」
「ほんとに借りてきた猫のよう」
 そう言って、貴代夫人は遠慮なくころころ笑った。


 坂木のせいでろくな世間話もできず、他人行儀なままで別れたため、来にくくなったのだろう。 寛太郎の訪問はそれっきりになった。
 やがて夏休みが近づいてきた。 志津は重い気持ちで荷物をまとめた。
 いつもなら、休暇は心躍る期間だった。 だが、今度は違った。 家に帰れば、兄がいないのを嫌というほど思い知らされる。 離れががらんと静まり返っているところを想像するだけで、胸が激しく痛んだ。
 暑さを増した馬車道から歩いて迎えに来た父も、思いは同じようだった。 心なしか額の皺が増え、少し痩せたように見える。
 ただ、父は志津の帰郷を前向きに捉えていた。
「おまえが戻ってくると、家がにぎやかになる。 お母様も首を長くして待っているよ」
「手紙にもそう書いてくださったわ」
 志津は鞄にしまった両親からの手紙を思い起こした。 母は筆まめだし、父も文筆家なだけに、半月に一度は手紙や葉書を山根家宛てに書き送っていた。
「君は果報者だと、山根の叔父様に言われました。 ご両親の恩を忘れないようにと」
 すると父は苦笑して、少し背が伸びた娘の頭をぐりっと撫でた。
「いかにも法の番人らしい、生真面目な説教だな」
 そして、短髪の頭からパナマ帽子を外して、志津のお下げ頭に被せた。
「髪が熱くなっているぞ。 暑気あたりになったら困る」
 父は前よりも苦労性になっていた。 一人残った娘まで、病に奪われたら大変だと思っているのだ。
 その気持ちがわかるだけに、このぐらいの暑さは平気だと笑いとばせなかった。 志津は斜めになった帽子の縁から父に微笑みかえし、寄り添って鉄道馬車の駅まで歩いていった。







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