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お志津
40 白い夜明け
志津が目覚めたのは、母が父のもとへ飛んでいった、その直後だった。
前の晩は、珍しく寝つきが悪かった。 いつもなら布団に入ったとたんに意識が薄れるのに、昨夜にかぎって長い間、目が冴えていた。 そして、居間にある西洋時計が長々と鳴って、夜中の十二時を告げた直後、雑念が不意に消えて、眠りに落ちたのだ。
だから、いつもより一時間ほど目覚めが遅くなった。 目をこすり、重い頭を抱えて起き上がると、すぐ何か変だと気づいた。
廊下を行き来する足音が、いやに多い。 しかも声を殺して囁きあっている。 まるで不幸があったような……
背中が氷の板になった。 顎もかじかんだ。 志津は飛び起き、あえぎながら服を着替えた。
廊下に出ると、目を真っ赤にした女中のお滝が小走りにやってきた。
「志津お嬢ちゃま、大変です。 定昌坊ちゃまが……」
「死んだのね」
志津は呟くように言った。 聞かされる前から、わかっていた。
「はい。 眠ってらっしゃる間に」
玄関のほうから聞き覚えのある声がした。 神経過敏になっているお滝は、ぎょっとなって胸に手を当てたが、すぐ誰か気づいた。
「あ、お医者様がみえました。 お出迎えに行かないと」
急いで歩きかけて、お滝は足を止めて振り返り、心配そうに尋ねた。
「大丈夫ですか? お蓉〔よう〕を呼んできましょうか?」
ひどい顔色なんだろうな、と志津は悟った。
「大丈夫よ。 佐竹先生をご案内してください」
「はい」
それでもちらちら振り返りながら、お滝は廊下を遠ざかっていった。
遂にこの日が来た。 いつも考えまいとして、意識の外に追いやっていた別れの日が。
頭がしびれたまま、志津は自動的に歩いて、兄が一四年を過ごした離れに向かった。
畳には新しい布団が敷かれ、顔に白い布をかけた体が横たわっていた。
左右に父と母が座っていた。 どちらも蒼さを通り越して、土気色の顔をしていた。
志津が部屋に入ると、母が手を差し伸べて強く握った後、軽く引いて横に座らせた。
三人とも無言だった。 予告された死に、説明は要らない。
それでもたまらなかった。 父が白布を上げるのを見て、志津は叫び出しそうになった。
まだ夜は明けきらない。 電灯のみかん色の光に照らされて、兄の顔は穏やかだった。 健康そうにさえ見えた。
揺すったら目覚めそうだ、と志津が考えたとき、足音が近づいてきて、佐竹医師が低い声で挨拶するのが聞こえた。
「このたびは、ご愁傷様なことで」
「佐竹先生、朝早く恐れ入ります」
父の声が、珍しく震えていた。
医師が死亡確認をする間、志津と母は部屋を出た。
いつも姿勢のいい母が、志津に寄りかかって肩を丸めて歩いた。
「昨日はあんなに元気だったのに。 夕御飯もよく食べて」
「お兄ちゃんは病気じゃないから」
志津は、歯の間から押し出すように、やっと声を発した。
そう言ったとたん、気づいた。
兄ちゃんには、なにか前触れがあったんだ。 だから私に贈り物を作ってくれた。 自分の力で回れるようにと、独楽〔こま〕を。
「昨日、話してくれたの。 私と山に登った夢を見たって。 でも、てっぺんで私が消えて……」
喉が詰まった。 母がかすかな嗚咽を上げたので、意味を悟ったのがわかった。
「消えるのは定昌のほうだったのね。 あの子は上に登って、天国に行ったんだ」
声が出なくて、志津は乱暴なほど大きくうなずいた。
当たり前だ。 兄ちゃんが天国に行かなくて、誰が行ける!
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