表紙

 お志津 39 夢であれば



 日が完全に落ちきる前に、二つの独楽〔こま〕が完成した。 大と小、寒色と暖色に塗り分けられた二個を、志津は軸を持って飽きずに眺めた。
「明日の朝には乾くから、回して遊べるぞ。 釣り合いはちゃんと取ってあるから」
「わかってる。 兄ちゃんは抜かりないもの」
「ははは、抜かりないか」
 定昌は喜んで笑い、細筆を取って、手近にあった小さいほうの独楽に『しづ』と書いた。
「なくしても、ちゃんと戻ってくるように」
 大きい独楽を志津の手から受け取って、名前を入れようとしたとき、志津が不意に思いついた。
「そっちには兄ちゃんの名を書いて。 作った人の銘として」
 その言葉に、定昌の手が止まった。 くつろいだ表情が、まじめになった。
「なあ志津」
「なに?」
「おまえ、生まれ変わっても、そのままの志津でいろよ」
 妙なことを言われてびっくりすると同時に、褒められたのだとわかって照れくさくなって、志津は畳に足を投げ出して大の字になった。
「えー? 今度は男になってみるつもりだったのに」
「たとえ男になってもだ」
 兄は断固として言った。
「きっといい男ぶりになる。 まっすぐすぎて苦労するだろうけどな」
「それでもいいよ。 次の世界を精一杯生きて、その次は」
「おいおい、もっと先まで夢見てるのか?」
「うん。 人間は男と女の両方生きたわけだから、次の次は他の物になる。 鳥がいいかな」
「空を飛んでみたいか」
「そうなんだ」
「きっとその頃は、普通の人間でも空を飛べるようになっているさ」
「そう思う?」
「ああ」
 定昌は、大きな独楽に自分の名前をさらさらっと書いてから、志津の真似をして畳に全身を預けた。
「昨夜、おまえと山に登った夢を見たよ」
 やっぱりお兄ちゃんは自由に動き回りたくて、夢に見るほどなんだ──志津は切なさを隠して、さりげなく返事した。
「ふーん。 鼎山〔かなえやま〕?」
「いや、たぶん違うな。 見たことのない景色だった」
 兄は笑いを含んだ声で答えた。
「てっぺんまで並んで行ったのに、そこでおまえとはぐれて、どこを探してもいない。 あせったよ」
「それで、見つかった?」
「最後には。 おまえは高い木の上にいて、手をかざして空を見ていた」
「やっぱり」
 いかにも自分らしい結末に、志津はぐんと両腕を伸ばして、なんだか誇らしい気持ちになった。




 翌々日は志津が学校へ戻る日、ということで、その夜の夕食もご馳走が食卓に並んだ。
 父は新しい連載の骨格ができて、依頼元の許可も出たので、くつろいでいた。 母は踊りの仲間がまた増えたと喜んでいたし、兄は兄で、のどかな村へ保養にやってきた水墨画の画家から囲碁の相手に誘われたと言って、おもしろがっていた。
「あまり根を詰めてはいけませんよ。 頭の使いすぎも疲れの元だから」
 母が気遣ったが、父は気にしなかった。
「根を詰めるほど張り切らないよ、あの冬洲〔とうしゅう〕という画家は。 飽きっぽいんだ、仕事以外では」
 うちの家族は本当に仲がいい、と志津は思い、楽しいはずの学校へ戻るのが少しおっくうになった。


 翌朝、珍しく定昌が寝坊した。
 朝の挨拶に出てこないので、いつも布団を上げに行く女中の代わりに、咲が離れに向かった。
 その数分後、裏庭で顔を洗い、歯を磨きおわって口をすすいでいる義春の背後に、人の気配がした。
 何気なく振り返った義春は、戸口にしがみついている妻を発見して、雷に打たれたようにひらめいた。
「定昌が……?」
 咲は蒼白な顔で、口をきけずにただがっくりとうなずいた。








表紙 目次文頭前頁次頁
背景:kigen
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送