表紙

 お志津 38 いつもの日



 その夜の食卓は賑やかだった。 父が出版社の友人に活きのいい鯖〔さば〕を貰ったため、大きな煮付けが並び、夫妻がご機嫌で酒をついだりつがれたりする中、みんなが志津の土産話を聞きたがった。
「へえ、自転車で学校に通っているの? 女の子が?」
「そう。 音楽学校の人なんだって。 公園通りを走ってるの見たことがあるけど、さっそうとしてて格好よかったよ」
「どんな自転車だい?」
 兄の定昌は、乗っている娘より車体のほうに興味があるらしかった。
「赤い車輪でね、黄色い筋が入ってた。 あれ外国のだよね。 高かったろうな」
「昔の自転車はな、前の車輪が大きくて、後ろがネズミのように小さくて、奇妙な格好をしてたんだぞ」
と、父がうんちくを傾けた。
「座席が高いから、乗るのが大変だったんですよね」
「そうなんだ。 若い頃に乗る練習をしてみたが、塀にもたれさせて踏み台使って、いやはや座席によじ登るだけで一苦労だった。 それが今では、女子が軽々と乗って走るとはなあ」
「軽井沢の避暑地で、異人さんたちが乗りまわしていると聞いたわ。 今のは車輪が同じ大きさだし、前よりずっと乗りやすいんでしょう」
 母が、なんとなく悔しそうな父をなだめた。
 輸入物の自転車か──不意に志津は、鈴鹿敦盛を思い浮かべた。 去年の夏、カンタローに連れられて、この里へ遊びに来た若者だ。
 敦盛の親は、たしか横浜で貿易商をしているはずだ。 自転車の輸入も手がけているかもしれない。
 あれから半年経った。 育ち盛りだった彼は、また身長が伸びただろうか。
 雲つくような大男になった姿を想像して、志津は忍び笑いを押さえきれなかった。


 翌日からは、普通の生活が待っていた。
 志津は普段着の着物に戻り、また近所の子供たちの大将になって、日に日に春めいてくる野山を巡っては、目をさましたどじょうを追い、土筆〔つくし〕を探した。
 一緒に鬼ごっこやかくれんぼをして遊ぶ子供達には、コブがついていることが多かった。 つまり、去年や今年に生まれた弟妹の赤ん坊だ。 チビを背負い、袖口を鼻水で光らせている子たちに、志津は特別やさしかった。
 親たちも、志津がいてくれると安心して子供たちを任せ、おむつまで預けた。 よその家の子守をして小遣いをかせいでいる子もいる。 学校に行く余裕のない彼女たちも、志津についてまわって、遊びの合間に字を教わったりしていた。


 夕方、親たちが野良仕事から戻るころ、志津は子供たちを家に送って、自宅に帰った。
 その時間、茜雲〔あかねぐも〕の下で、定昌はせっせと物作りに励んでいる。 だから志津は裏木戸から庭に入り、しばらく兄の部屋にいるのが常だった。
 三月末の日曜日。 その日もいつもと変わりない午後だった。
 志津は四時前にみんなと別れ、身軽に裏庭へ飛び込んで、兄のいる縁側へ向かった。
 定昌は、独楽〔こま〕を削り終わったところだった。 立ち上がって、奥から塗料の箱を取り出して戻ってくると、なめらかに鑢〔やすり〕をかけた表面に色を塗っていく。 志津は縁側に腰掛けて、兄が以前に自分で作った小さなロクロが回り、筆先の絵の具で正円を描いていくのを見守った。
「それも凧みたいに、みんなにあげるの?」
「いや」
 兄は白い歯を見せて笑った。
「これはおまえにやろうと思うんだ」
「えー? ほんとに?」
 志津は目を丸くして喜んだ。









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