表紙

 お志津 36 学業の日々



 元気で学校に戻った志津は、わずか二週間半の休暇だったのに、一年ぶりで逢ったように友人たちに大歓迎された。
 その前に父と銀座を回って、兄との約束の買物を済ませたので、志津も晴れ晴れしていた。 もう学校の雰囲気や勉強の内容に慣れ、同学年だけでなく上級生にも知り合いがたくさんいて、先生とも礼を失しない範囲で親しくしている。 だから志津にとって、女学校はすでに第二の家といってよかった。


 生徒たちに一番人気があるのは、社会の雪平桜〔ゆきひら さくら〕先生だった。 物知りで話がうまく、授業が面白いからだ。
 国文学の先生は、きりっとしていて近づき難く、遠くからあがめられていた。 島崎その子というその先生は、すらりとした美しい人で、親は城代家老だったという名門。 凛とした美貌は、生徒たちの憧れだけでなく、父兄たちの注目も集めていて、縁談が降るように持ちかけられているという噂だった。
 男の教師も、いないわけではなかった。 体育を受け持つ柳孝三郎〔やなぎ こうざぶろう〕先生は、生徒間では『お馬』で通っていた。 もちろん、見た目の感想だ。
 てきぱきしているが、根はやさしくて、無茶な訓練はしないので、けっこう好かれていた。
 あまり人気のない先生は、一人だけだった。 算術の今田〔いまだ〕という男性教師で、見るからに神経質なのだ。
 呼ばれて前に出た生徒が解き間違いをすると、たちまちこめかみに青筋が立つ。 あせって計算間違いでもしようものなら、粗忽〔そこつ〕だ、軽率だと切って捨てられた。


 それでも生徒たちは、いらいらしがちな今田と何とか折り合いをつけて、真面目に授業をこなしていた。
 ところが二月の半ばになって、彼が不意に無断欠勤した。
 一週間授業に出てこないため、心配になった校長が体育教師の柳に様子を見に行ってもらったところ、骨折で寝込んでいることがわかった。
 通学生の一人に、親が警察幹部という子がいて、間もなく裏情報が筒抜けになった。 今田は下町のほうへ飲みに出かけたところ、若い男と出くわして喧嘩になり、ぼこぼこに殴られて怪我をしたらしい。
「あの今田先生が、喧嘩? お酒にはめっぽう強くて、酔っても冷静だって柳先生が言っていらしたわよ」
「冷静っていうより計算高いのよね。 損になるようなことはしない人」
「伝え聞いたところによると、襲った男は『先生ヅラするんじゃねぇ!』ってどなっていたそうよ。 前の教え子なんじゃない?」
「あらあら」
 生徒たちは顔を見合わせて、意味深長な表情になった。


 肋骨を折り、脚の骨にひびが入ったとかで、今田は新学期いっぱい休講することになった。
 臨時に登場した数学教師は、白髪で腰の曲がった老人だった。 初めはちょっとがっかりした生徒たちだが、大倉というこの老人は意外にも、朗々とした声を響かせ、むずかしい式でも噛み砕いてわかりやすく教えてくれるという、すばらしい教師だった。
 あっという間に、大倉老人は『教壇の生き神様』という仇名をたてまつられ、女学生の友になった。 そして、新学期の終わりに辞職の挨拶をしようとすると、老人が授業を受け持っていた低学年から猛烈な反対運動が起きて、校長に直訴する者も現われ、ついに幹部たちが折れて、今田と大倉の両方とも雇うことになった。







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