表紙

 お志津 34 新学期寸前



 志津と連れ立って峰山家を訪問した寛太郎は、あまりお説教をしない父の義春にホッとしたらしく、しばらくくつろいで話をしていった。
 後で志津が父から聞いたところによると、寛太郎の学校はおおらかな校風で、少々のことでは退学にならないのでよかったそうだ。
「これが帝国大学なら、一発で放校にされたかもしれん」
 志津は驚いて青ざめた。
「そんなにひどい喧嘩だったの?」
「殴り合いはよくあることだが、今回は木〔たかぎ〕という学生が小刀を持っていて、相手に傷を負わせたからな」
「刃物を振り回したんですか?」
 母の咲もびっくりして、声が高くなった。
「腕と肩を切ったらしい。 一太刀なら勢いでやったと弁解できるが、二度切りつけたとなると問題だな」
「それで、その人は捕まったまま?」
 父はうなずいた。
「裁判にかけられるだろう。 ただの酒の勢いではないように思える」
「相手に恨みがあったとか」
 志津が呟くと、父は目を上げた。
「そうだと思うよ、わたしも」




 母の手伝いや家のことは、できるだけ午前中にすませて、午後は兄の部屋に入り浸っている志津だった。
 いよいよ明日は学校へ戻るという日は、寒風が吹きすさんで底冷えのする天気だったが、障子を閉めて火鉢に炭を入れ、若い兄妹が部屋に詰めていると案外暖かかった。
 二人は話しながら、てんでに物を作っていた。 志津は体育の時間に使う鉢巻を縫った。 それは正月休みの宿題で、帰ってきてすぐやる予定だったのに、友達付き合いや楽しい行事にまぎれて、ぎりぎりまで忘れていたのだ。
 兄に比べれば落ちるが、志津も決して不器用ではない。 凄い勢いで針を使って縫いあげていると、だいぶ前から取りかかっていた箱庭の仕上げをしていた定昌が、満足の声を上げた。
「これでよし!」
 すぐ縫い物の手を止めて、志津は畳をすべるように兄のそばへにじり寄っていき、小さな世界をほれぼれと眺めた。
「山のお寺と、池と杉。 子供たちが遊んでいて、可愛いね。 あ、木の枝にカラスが止まってる」
「小さいときの思い出だ。 まだ外を走り回っていた頃の。 今でもはっきり頭に残っているんだよ。 しょっちゅう思い出すからかな」
 兄ちゃん……
 ほろっとしたのを隠そうとして、志津は笑顔になった。
「ねえ、どの子が兄ちゃん?」
 長くて指先が細い優雅な定昌の手が、木登りしようとしている紺色の着物の子供に触れた。
「この子だ。 まだ木には登れなかったけどな」
「いつか登れるよ」
 不意に志津は、確信を持って言い切った。 最近、兄はとても元気そうだ。 きっと薄紙を剥ぐように少しずつ健康になって、長生きできるかもしれない。
 顔を上げると、兄は微笑んでいた。
「もう木登りが楽しい年じゃないな」
「じゃ、山登り! って、そんな地味なこと、したくないかな」
 定昌は、声を立てて笑った。








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