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お志津
10 秋の祭りで
志津は、手にしていた和綴〔わつづ〕りの本を畳に置くと、強ばった顔で起き上がり、膝をそろえて座った。
「東京へなんか行きたくない」
すると定昌は、廊下から濡れ縁をへだてて、更に遠くの景色へ目をやった。
「僕は行きたい。 煙を吐く陸蒸気〔おかじょうき:汽車のこと〕に乗って、全国を旅して、いろんなものを見聞きしてみたいよ」
「兄ちゃん……」
話の内容よりも、こんなときにさえ兄の声が静かなのが、志津には衝撃だった。 もし自分が体を壊して動けなくなったら、きっと大声で嘆き、騒ぎ、泣きわめくだろうに。
定昌は、悲しげな妹を見て、ふっと微笑んだ。
「実際に旅に出たら、不便だったり、置き引きにあったりしそうだな。 だから夢。 あくまでも想像で楽しんでいるんだ。
でもおまえは行ける。 そして、僕はその話を聞けるってわけだ。 町の様子を詳しく書いた手紙がほしいな。 字の練習にもなるし、僕も寂しさがまぎれる」
「うん、書く」
志津は大きくうなずいて承知した。
夏の余韻が残る九月末、村祭りが開かれた。
まだアセチレン灯は普及しておらず、明かりは蝋燭と提灯〔ちょうちん〕だった。 人々は薄暗く柔らかい光の下で、うちわを帯に挟んで定番の金魚すくいをやり、ひょっとこやおかめの面を買った。
やぐらの周りでは、踊りの輪ができた。 その脇で、相変わらず子供たちに囲まれた志津は、彼らに鼈甲飴〔べっこうあめ〕を買ってやり、自分は竹笛を手に入れて、お囃子〔はやし〕に合わせてなかなか上手に吹き鳴らしていた。
寛太郎が太鼓打ちを頼まれたため、敦盛は珍しく一人で、賑わう広場を散策していた。 すると、周囲の子供たちに目配りしながら、大木に寄りかかって横笛を口に当てている志津が見えた。
ふと、話しかけたくなった。 もう二ヵ月半以上この村で過ごしているが、直接に志津と口をきいたことは一度もない。 男女がなれなれしくしないのが建前とはいえ、前から不自然な気がしていた。
のんびりと歩いていく人の列から、不意に大きな敦盛が姿を現すと、鬼ごっこをして走り回っていた子供たちの一人が、彼のほうへ走っていって、背後に隠れた。
その後ろから、寛太郎の弟の松治郎が駈けてきた。 どうやら彼が鬼らしい。 手を精一杯伸ばして、敦盛の後ろにいる男の子に触れようとするが、男の子のほうは巧みに体をよじらせて避け、どうしても捕まらなかった。
「吾市〔ごいち〕〜、ずるいぞ! 鈴鹿さんにかくまってもらうなんて」
「べーだ、ほらほら鬼さん、ここまでおいで」
「そりゃ目隠し鬼だ」
苦笑しながら、敦盛は背後に手を回して、隠れた男の子をつまみ出した。
「ひゃー!」
安全な隠れ家から放り出された男の子は、慌てふためいて広場の小道を走った。 松治郎も素早く後を追って行った。
志津は笛を吹くのをやめ、浴衣の袂〔たもと〕にしまうと、彼らを目で追って嘆息した。
「あーあ、あっちには行くなと言ったのに」
敦盛は責任を感じて、志津に呼びかけた。
「あいつらは右に行った。 おれが見つけて連れ戻してくるよ」
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