表紙

 お志津 9 大好きな兄


 江戸の太平の夢から無理やり揺り起こされた日本では、様々な制度の切り替えが乱暴なほど急いで行なわれた。
 学校制度もその一つで、寺子屋から小学校・中学校へと移り変わり、しかも義務教育になった。
 親たち、特に農民は、この制度に不満だった。 子供といえども農家では立派な働き手だ。 忙しい時期に校舎に押し込められては、使いものにならない。 子供を返せ、と暴動が起きた地域まであった。


 その中で、志津は中途半端な年齢になっていた。 小学校は卒業したから、義務は果たした。 だが彼女の両親は素封家〔そほうか〕なので、一人娘に箔〔はく〕をつけさせたい。 新都にできたという女学校へ行かせられないかと、今調べているところだった。
 志津の兄の定昌〔さだまさ〕が病弱なため、よけいに人一倍元気な妹に、家族の期待がかかった。 成人するまで定昌が生き延びられるかどうか、心もとない。 万が一にも悲劇が起こった場合、跡を継ぐのは志津とその婿ということになる。
 だから、当時としてもやや異例に、早めの縁談がまとまったのだった。 


 志津は、奥の間で寝起きしている兄が大好きだった。
 定昌は、幼い頃に熱病を患ってから活力がなくなり、動くとすぐに疲れてしまう。 労咳〔ろうがい:結核のこと〕のような病気にかかっているわけではないが、年々少しずつ弱っていっていた。
 それでも定昌は弱音を吐かなかった。 いつも身ぎれいにしていて、機嫌よく人の話を聞き、自分の体力でできることを、こつこつと努力してやっていた。
 学校に通えなくても、小学校の校長をしている伯父が舌を巻くほど勉強が出来た。  また、特に彼は手先が器用で、竹とんぼや小さな弓矢などを作り、上手に飛ばした。 志津が始終兄の部屋に入りびたって、感心して眺めていても、うるさがらない。 むしろ妹の注文を聞いて、いろいろ作ってくれた。 つりあいのいいヤジロベエとか、竹を細く裂いて編んだ髪留めとか。
 兄ちゃんは天才だ、と、志津は固く信じていた。 体さえ丈夫なら、きっと偉いハカセになって、世の中をよくする人なんだと。
 それなのに駆け足さえできず、庭を少し歩いただけで息切れしてしまうなんて。 よく耐えているが、兄の無念さを思うと、なんでもしてあげたくなる。 志津は定昌のために、かいがいしく工作の材料を集め、村の小さな書店に行って、兄の興味を引きそうな科学の本を買ってきた。
 実は、平家物語も、兄のために倉から持ち出したものだった。 まだラジオもレコードも無い時代だ。 手仕事をしている間、志津が本を朗読すると、定昌は喜んで聞いた。
「志津は声がよく通って、聞きやすい。 話が数倍おもしろくなる」
「ほんと?」
「ほんとだとも。 外であったことを話してくれるのも楽しみだ。 で、カンタローと友人はうまく鮒が釣れたのかい?」
「大漁だったって。 自分たちで言ってるだけだけど」
 兄ちゃんも、できれば彼らと一緒に釣りや相撲に行ってみたいだろうな、と、志津は思った。 兄は今十九だ。 二人の学生より少し年上で、きっと彼らより賢いだろうに。
 最近新しく始めた張子細工を置いて、定昌は優しい目で妹を見やった。
「おまえも遊びに行っておいで。 ここにばかりいたら退屈だろう」
 志津は畳に腹ばいになり、頬杖をついて兄を見上げた。
「ううん、兄ちゃんのしてること見てると飽きない」
 それからしばらく、定昌は作業を続けた。 下地を貼り終えたところで、濡れ手ぬぐいで指を拭くと、定昌は呟くように言った。
「秋になったら、おまえも学校へ行くそうだ。 いなくなったら寂しいだろうな」






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