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 お志津 7 家に入って


 寛太郎と敦盛が身づくろいをして上に上がり、廊下を歩いていると、奥座敷から琴の音が響いてきた。
「母上か?」
 敦盛が尋ねた。 ちょっと耳をすませてから、寛太郎は答えた。
「母と姉だ。 今日は師匠が来ているようだから、二人でおさらいをしているのだろう」
「琴はいいよなぁ」
 敦盛が溜息まじりに呟いた。
「うちなんぞ、父が新しもの好きで、荷くずれしたピアノフォルテを安く買い取って、家に持ち帰ってきた。 おかげで妹と弟がいたずら弾きして、耳が痛くなるほど騒がしい」
「だから夏休みをこっちで過ごすことにしたのか?」
 寛太郎がからかうと、敦盛は糸切り歯を見せて笑った。
「それもあるやもしれん。 だが本音を言うと、野山や田んぼが恋しくなった。 横浜はどんどん広がって、町屋ばかりになってきたからな。 なんだか息苦しい」
「田んぼなら、学校の傍にたくさんあるじゃないか。 なにしろ早稲田というぐらいだから」
「ああ、そうだ。 だからあの私塾を選んだわけだ」
「本当か? 田んぼとカエルのためなのか?」
 二人が声を上げて笑っていると、横の障子がすっと開いて、上品な夏着をまとったすらりとした夫人が姿を見せた。
「おや、お帰りなさい」
 とたんに寛太郎は姿勢を正し、体側に腕をぴたりとつけて、母に一礼した。
「ただいま戻りました」
 珠江〔たまえ〕夫人はすぐに、菩薩〔ぼさつ〕のような柔和な表情を、息子の横に立つ大きな若者に向けた。
「貴方が鈴鹿敦盛さんですね。 ようこそおいでになりました。 息子が学校でお世話になっているそうで、ありがとう存じます」
「いえ、こちらこそ寛太郎くんにはいろいろと面倒をおかけしています。 不調法者〔ぶちょうほうもの〕なのでご迷惑をかけると思いますが、どうかよろしくお願いいたします」
 野性味を感じさせる風貌とはうらはらに、立派な挨拶をする敦盛を、珠江は束の間、感心した目で眺め、それから微笑を送った。
「部屋は寛太郎の隣に用意させました。 庄吉が荷物を運びましたから、夕飯までくつろいでくださいね。
 寛太郎、案内してさしあげて」
「はい、母上」
「それでは、また後ほど」
 珠江は優雅な香の香りを残して、再び障子の向こうに戻った。
 長い廊下を歩きながら、敦盛はそっと言った。
「上品な方だなぁ」
「怒ると夜叉〔やしゃ〕だよ。 親父より気が強い」
 そう答えて、寛太郎は肩を落としてみせた。
 敦盛は、見事に整った中庭の植え込みに目をやりながら、ぽつりとつぶやいた。
「そういえば、おまえの許婚〔いいなずけ〕は戻ってこないな」
「ああ、とんぼ採りに行ったきりだ。 気まぐれなおてんばなんだ」
「俺がついてきて悪かったかな。 おまえの帰りを楽しみにしていたのに」
 寛太郎は噴きだした。
「そんなに気をつかうなよ。 あれはまだ、ほんの子供なんだから、気まぐれで迎えに来ただけさ」


 そのとき、志津が一人で小道を歩きながら、何を考えていたか知れば、寛太郎もそう呑気に構えてはいられなかっただろう。
 志津のまだ小さな胸は、せっかく暑い中を山に登って、小半時も細かい柿の花を拾い(これはいたずらの準備だが)、わざわざ出迎えてやったのに、妙に大人ぶってろくに相手もしてくれなかった寛太郎に対する悔しさでくすぶっていた。
 だから途中で寄り道をして、姿を消したのだ。 どうせ気にもしていないにちがいない。 うるさいのがいなくなって、せいせいしたと思っているんだ。
 じっくり考えてみれば、昔から寛太郎とは気持ちのすれちがいが多かった、と、志津は思いはじめていた。
 こんな小さな村の知り合いなんて、お互いに選ぶ範囲が狭すぎる。 世の中には何万、何百万と男がいるんだ。 
 親同士で決めた婚約が本当にお互いに合っているのか、ここは思案のしどころだ、と志津は決意を固めた。






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