表紙

面影 62


 一刻も早く遠方へ逃れたいと必死で急ぐ人々に混じって、お幸とおせきも歩き出した。 初めは沢山いた道連れは、次第に脇道に逸れ、だいぶ少なくなってきたところで、お幸たちも横の細道へ入ることにした。
 もともと城へ入るつもりだったから、旅支度など何もしていない。 農家があったら少し休ませてもらって、草履や手甲脚絆ぐらいは手に入れたい。 重くなった足を懸命に前に出し、二人は黙ったまましばらく歩いた。
 やがて青々とした田んぼが開け、その横にうずくまるような形の茅葺き屋根が見えた。
「あそこに頼んでみようか」
「そうですね」
 おせきの声が僅かに勢いづいた。


 雨が強くなってきたため、農家では作業を休んで家にいた。 濡れそぼれて入ってきた女二人を見て、野良着をつくろっていた女房は驚き、すぐ乾いた着物を貸してくれた。
 着替えて人心地のついた二人が、出された握り飯と味噌を口に運んでいると、裏手で殺気立った声が響き、ついで部下を二人従えた若侍が、刀を杖にして足を引きずりながら出入り口に姿を現した。
 返り血を浴びたその顔を見て、お幸ははっとした。 彼は以前、お幸に道で付け文をした若者だったのだ。
 気まずさはあったが、それ以上に見知った顔に会えたのが嬉しく、お幸は床に立ち上がって挨拶しようとした。
 冷たい眼がその顔を一閃し、すぐに横へ逸れた。 いらついた声が、囲炉裏の傍に座っていたこの家の主に浴びせられた。
「何をぼうっとしている! 我らはお国を守るために戦っているのだ。 さっさと飯を出せ!」
 お幸たちの前には、まだ握り飯が並んでいた。 それを女房に手渡すと、運んで行ったその飯に、兵たちは礼も言わずかぶりついた。
 落ちた肩からは、すでに敗残の気配がただよっていた。 正視できない思いで、お幸は家の主たちに心づけを渡して感謝した後、おせきを促してまた雨の中に出ていこうとした。
 三人の傍を通り抜けたとき、低く呼びかけられた。
「お幸さん」
 ぎくっとして、足が進まなくなった。 男は疲れた顔を上げ、早口で続けた。
「急いでこの土地を離れなさい。 できるだけ早く。 ここの奴らを信じてはいけない。
 戸ノ口原があっという間に落ちたのは、百姓どもの裏切りがあったからだ。 石筵村の奴らが敵の道案内をした上、大島さまの本陣に火をつけたそうです」
 お幸は細かく身を震わせ、頭を下げてから外に出た。 雨はいくらか小降りとなり、ぬかるんでいた道の水溜りは消えていた。




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