表紙

面影 63


 手甲はかなわなかったが、草履と笠は手に入れることができた。 おせきの忠告で、お幸は既婚者のしるしの鉄漿〔おはぐろ〕を落とし、白い顔や手に泥をなすりつけて、粗末な着物の似合う田舎娘を装った。

 がんばって随分歩いたのだが、敵が占拠しているという猪苗代をよけていくため、道が遠回りとなり、夕闇が行く手をふさぎ始めた。
 道端に小さなお堂があった。 格子戸を開いて中を見ると、木の床はところどころ朽ちて穴があき、笹が下から枝先を覗かせていた。
「お嬢さん、眠れますか、こんなところで?」
「眠れるさ」
 お幸はきっぱりと言った。
「野宿しないですんで有難い。 さいわい夏だから寒くもないし」
 黒光りする短筒を横に置いて、風呂敷包みを枕に、二人は横たわった。 そして、すぐ泥のような眠りに落ちていった。


 おせきの手で揺り起こされたとき、慌てて目を開いたお幸は、自分がどこにいるか少しの間思い出せなかった。
 それから、記憶が勢いよく蘇った。 同時に、お堂の外でちらちらと灯りが動き、男の声が呼び合っているのがわかってきた。
「用心せいよ。 どこに敵兵が潜んでおるかわからんのじゃき」
 たちまちお幸の全身が粟立った。 耳慣れない言葉、聞きなれない声の響き……新政府軍だ!
 二人が金縛りにあったようにじっとしていると、きしりながら格子戸が開いた。 そして、細い松明をかかげた男の上半身が、斜めになってぬっと入ってきた。
 お幸は硬直した。 寝起きで意識がはっきりせず、拳銃を構えるのを忘れていたのだ。 素手のまま、お幸は放心状態で男に目をすえた。
 男もお幸を見返して、動作を止めた。 まだ若く、整った顔立ちをしていた。 頭に馬のたてがみのような奇妙な長毛がうねっている。 後で知ったのだが、それは指揮官用の戦闘帽についた飾りだった。
 大きなきらきらした目が、一回だけ瞬きした。 それから、視線を二人の女に向けたまま、ゆっくりとくぐり戸から体を抜いた。
 平静な声が男の口から出た。
「誰もおらん。 若松へ戻って井荻隊と合流しよう」
「はい」
 部下らしい男たちが一斉に返事した。 男は格子戸を閉めた。 足音が遠ざかり、やがて馬の蹄の音に変わって、夜道に消えていった。




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