表紙

面影 61


「ご新造さん、女の二人連れじゃ川は渡れまい。 漕いでいってやろうか?」
 いかにも荒っぽそうな身なりに、おせきは尻込みした。 だが、お幸はまっすぐ彼の小さい目を見つめ、そこに穏やかな光を認めた。
 どこで人を信じるか、信じないか。 一種の賭けだし、運でもあった。 お幸は赤銅色をした大男を信じようととっさに決め、周りの騒ぎに負けない大声で頼んだ。
「お願いします!」
 男はうなずき、まだ残っていた小舟に二人を助け乗せた。 その様子を見た人々が、どっと群がった。 みな恐怖で吊り上がった目をしている。 大男は老人と子供を抱き取って船に上げ、やみくもに乗ろうとした若い男に怒鳴った。
「おめえらは自分で漕げるだろう! いいか、流れに逆らうな。 こけないようにしてりゃ、どこかに流れつくからな!」
 男たちは忠告に従い、急いで横の舟に飛び込んだ。 そちらにも次々と人が押し寄せた。
 男はもやいを解き、荒れた川に舟を出した。 巧みに竿を操り、斜めになりながらも向こう岸に近づいていく。 その踏ん張った姿はお宮の仁王像さながらだった。
 ずいぶん遠くへ押し流されたものの、男の漕ぐ舟は一人の乗り手も失わず、向こう岸へ到着した。 岸辺に降り立った人々は、涙を流し、深々と腰を曲げて男に礼を言った。
 お幸も感激して、気持ちを形で表そうと懐に手を入れた。 その手を、おせきが上から押さえた。
「いけません、お嬢さん。 あの人は本当の親切心でやってくれたんです。 なまじっかお金を見せて邪心を誘っちゃなりません」
 そのとおりだと、お幸にもわかった。 歩み寄って心から感謝すると、男は初めて歯を見せて笑った。 真っ白い丈夫そうな歯だった。
「なんのなんの。 あんたたち、これからも逃げていくんだろう? ご無事でな」

 ご無事で――その言葉が、改めてお幸たちに今の境遇を思い出させた。 これからどこへ行こう。 店のある飯坂か…… お幸は首を振った。 自分が町家のおかみさんだったら逃げていける。 だが、多分すでに敵が入り込んでいる飯坂では、会津藩の武士の妻が歓迎されるはずはなかった。
 思いはもっと昔に飛んだ。 子供時代に慣れ親しんだ静かな大地に。
「ねえ、おせき。 芦ノ牧って知ってるかい?」
 おせきは、雨としぶきでずぶ濡れになった肩を払う手を止めて答えた。
「名前だけは」
「私の生まれ故郷なんだよ。 ちょっと遠いが、そこまで歩いていければなんとかなると思うんだけれど」
「行きましょう」
 おせきはきっぱりと答えた。




表紙 目次文頭前頁次頁
背景:kigen
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送