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面影 41
九月の二日、夜中降った雨が上がってすがすがしい道を歩いて、お幸は加藤家に入った。
お狩り場同心、加藤兼高〔かとう かねたか〕の妻女であるお常〔つね〕は、ぽっちゃりと太った可愛らしいお内儀で、お幸をわざわざ外の門まで出迎えてくれた。
「常です。 さあ遠慮なくお上がりなさい。 行儀見習といっても、あなたは三味線のお稽古に通っていたそうだから、挨拶や立ち居振舞いなどはきちんとできるはず。 自然で慎ましやかにしていれば、たいていのことは大丈夫ですよ」
一人息子を疱瘡〔ほうそう〕で失くしたという加藤夫妻は、久しぶりに若い声が家に響くと喜び、お幸に親切だった。
「ゆくゆくは林田の末息子を養子にほしいと思っているのだが、なかなか来ようとしない。 よほど林田の家が住み心地よいらしい」
ひょろっと痩せた兼高が苦情を言うと、茶を立てていたお常が笑ってまぜかえした。
「誠吾〔せいご〕殿は兄思いなのですよ。 あんなに仲のよい兄弟は見たことがありません。 小さいときからくっついて歩いていて、伊織殿が飯坂に行かされたときは家出して追っていこうとしたぐらいですからねえ」
地味な無地の着物をきて、かしこまって座っていたお幸は、夫の次にお常が自分にまで茶をすすめてくれたので、びっくりした。
「お内儀様に立てていただくなんて、そんな、もったいない」
お常はころころと笑い崩れた。
「固くならないで。 うちの一族は気のおけない人ばかりですからね。 木更津へ行って絵描きになった者や、俳諧に凝って流派を作ってしまった者やら」
「あれはいけない」
真面目な顔で、兼高が言った。
「俳諧は夢中になると身上をつぶす」
「平四郎さんはうまくやっているようですよ。 お弟子さんたちが茄子だの蕪だの差し入れてくれるって、お美濃さんが」
お常は明るくて、罪のない噂話が好きだった。 お常について、巻物の開き方から袴の畳み方まで教わる合間に、お幸は彼女の口から、伊織の主だった親戚のことを、自身の一族より詳しく聞き知ってしまった。
加藤家に、伊織は毎日のように来た。 彼も準備で忙しいらしく、席を暖める暇もなく帰ってしまうのだが、顔を見て、一言二言ことばを交わすだけで、お幸はどんなにか元気付けられ、肩の荷がすっと降りる心持だった。
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