表紙

面影 40


 律儀な伊織は、結納が済んだ今になっても、正式な夫婦になるまでは身を慎むと決めていて、招いても座敷には上がろうとしなかった。
 代わりに二人は、夕暮れの縁側に並んで腰かけ、淡く揺らぐ東の空を眺めた。
「もう夕星が出ていますね」
「少し涼しい風が来るようになったようです。 ここは川端だから、武家屋敷のほうより涼しい」
「九月になったら、加藤さまへ行儀見習いに入ります。 町家とはいろいろとしきたりが違うのでしょうね。 私などにうまく務まるか……」
「そんな心配は要らぬこと」
 伊織はきっぱりと遮った。
「うちはそんな格式張った名門ではありません。 二百石十人扶持〔ふち〕のありふれた家柄で、職禄を入れても家計はぎりぎり」
 そこで、伊織の眼に強い光が宿った。 初めて逢った祭りの日に、眦〔まなじり〕を決して敵を見返したあの激しい視線を久しぶりに見た気がして、お幸の胸はわなないた。
「桔梗屋のご主人から聞きました。 持参金があるそうですね。 でもそれは、あくまでお幸さんのもの。 お幸さんの裁量で使ってください。 そして、毎日の暮らしはうちの収入に添って、慎ましやかにやってもらいたい」
「はい!」
 お幸の返事が、鞠のように弾んだ。 もちろん初めからその覚悟だった。 生家より格式が上の家に嫁入るのだ。 相手の家風に合わせ、家族に溶け込むために、努力は惜しまなかった。
 姑になる人にまだ会ったことはないが、義三の話だと、高ぶったところのない温かい雰囲気だったという。 史絵〔ふみえ〕というその姑に気に入られるためなら、お幸は雑巾がけでも洗い張りでも、何でもする心づもりだった。

 伊織はその返事を聞くと、視線の炎を消し、柔和な顔になって微笑んだ。 その笑顔があまりに優しかったので、お幸は体をずらしてそっと広い肩に寄りかかってしまった。
 伊織は無言で腕を伸ばし、お幸の背中に回した。 背後から団扇で風を送っていたおせきは、その様子を見て目立たぬように座敷を下がり、表の井戸へ水汲みに行った。

 ひっそりと寄り添って、二人はしばらく動かなかった。 お幸は半ば眼を閉じて、しっかりとした呼吸と共に伊織の肩が上下するのを、押しあてた頬で感じとっていた。
「お、これは」
 差し伸べた伊織の指先を、青白い光がかすめ過ぎた。
「蛍!」
「あそこにも。 あ、ここにも」
 二人は子供のように手を出して、かすかな光の跡を無邪気に追い続けた。




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