表紙

面影 35


「まだ二十二という若さだったそうだ。 お気の毒に」
 はっと思いついて、お幸は尋ねてみた。
「そのお侍さんは、主馬頭というお仕事でしたか?」
「そうだ。 おう、やはり主膳さまゆかりの方なんだな」
「はい、たぶん」
 突然起きたその出来事で、林田家は嫡男を失い、伊織を急いで飯坂から呼び戻したのだろう。 次男だった伊織は、きっと飯坂で養子に入る予定になっていたのだ。
「悪い縁ではなさそうだ。 もちろんわしもそのお方に会わせてもらうが、お互いがまじめに思い合っているのなら、道がつながらないこともなかろうよ」
 慎重な言い回しではあったが、どうやら認めてくれそうだと悟ったとき、お幸の全身から力が抜けた。 くたくたと畳に崩れると、両手を揃え、額をすりつけるようにして、伯父に深く頭を下げた。
「お願い……します。 一生恩に着ます」


 感謝の心は、おせきにも向けられた。 桔梗屋がそそくさと戻っていった後、お幸はおせきを呼んで自分の前に座らせ、きちんと頭を下げた。
「ありがとう。 おせきがいてくれなかったら、こんな嬉しいことにはならなかった」
「嫌ですよ、お嬢さん」
 若い二人の情に負けてこっそり逢わせたことを、桔梗屋に叱られなかったのでほっとしているおせきは、すっかり明るくなっていた。
「あの坊ちゃんは忠義なご一家の出なんですねえ。 きっとお嬢さんにも誠を尽くしてくれますよ」

 おせきは小さく端唄を口ずさみながら、素焼きの豚を持ってきて蚊遣りの火を焚きはじめた。 お幸は縁側の柱に寄りかかり、うちわを手に暮れかかる空を眺めた。
「今年の七夕さまは曇りで、星が見えなかったけれど、織姫と彦星は会えたろうか?」
「きっと会えましたよ。 天の川の中頃でね」
 誰も彼も、この世のすべてが自分と同じに幸せであればいい、と、お幸はちらちら光る幾つもの星から星へ眼を移しながら願った。 それほど心の底から満ち足りて、幸福だった。



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