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面影 36
桔梗屋からの使いが、もう翌日には矢柄屋に走った。 とたんに治助が血相を変えて飛んできたので、お幸はびっくりした。
むっとするほど暑い日だった。 湿気で食欲がわかず、午後に心太〔ところてん〕でも軽く食べようかとおせきに話しているところへ、庭先にいきなり治助が入ってきた。
女二人はあっけに取られて、菅傘の紐を解いている治助をまじまじと眺めた。
「大番頭さん! こんな急に、どうなさったんです?」
「どうもこうも」
汗が額に流れているが、治助の顔は血の気が失せ、むしろ青くさえ感じられた。
縁側に上がって膝を正して座ると、彼は挨拶抜きでお幸を問いただした。
「いったいどういうことなんですか、お嬢さん? こちらで暇を持て余していたのはわかります。 でも、お侍とねんごろになるなんて……」
「ねんごろになんてなってはいないよ」
きっとなって、お幸は言い返した。
「それに、暇だったから林田様に気を引かれたわけじゃない。 前は飯坂にいらっしゃった方で、ずっと顔見知りだったんだ」
治助の表情が変わった。
「顔見知り……?」
「だから変な意味じゃないって! たまにすれ違っただけだよ。 お互い目を合わせたことさえなかった」
ふっと息を継いで、お幸は小さく付け加えた。
「でも私は伊織様を気にかけていたし、伊織様も私を見ていたそうだ」
治助の指が、傘の縁を握りしめた。
「そういえば、康助が言っていましたな。 道場通いの連中がお嬢さんに目をつけている。 付け文までしたと」
「あれは康助に取り上げられてしまったし、もともと読む気もなかった。 あの人は私の気持ちを勘違いしていたんだろう」
お幸はあっさりと答えた。
「私があそこの道を通ったのは、伊織様を遠くからでも見たい一心だった。 他のお仲間たちは顔も覚えてないよ」
見て、無事を確かめて、力を分けてもらいたい。 あの不思議な高揚感、生きる張りを名前も知らない若者から貰っていたというめぐり合わせを、お幸はうまく説明することができなかった。
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