表紙

面影 32


 しっかりと拳を作って膝に置き、伊織は言葉を重ねた。
「わたしは飯坂にも会津にも知り合いがいます。 旗の商いは侍相手が多い。 林田家と縁組するのは、矢柄屋にとって悪いことではないはずです」
 伊織さまは前もって考えぬいてきている――それがお幸にはひしひしと伝わってきた。 これまで、恋と義理は並び立たず、店のために嫁ぐのは当たり前だと思いこんでいた。 しかし、もしかすると両方が丸く収まるかもしれない。 矢柄屋には後ろ盾がつき、得意先が増える。 その儲けの一部を林田家に融通すれば、家計がうるおう。 現に、そういう目的で大商人と縁組する武士の話はよく耳にした。
 どうしよう…… 斜め後ろのおせきに目を走らせると、心配そうな顔はしていたが、首を横に振ることはなかった。 おせきも迷っているらしかった。
「母には一通り話してきました。 反対はされませんでした」
「私も」
 熱い息がすべり出た。
「桔梗屋の伯父に話を聞いてもらいます。 伯父はしっかりした人で、世間をよく知っています。 伯父を味方にできれば、うまく行くのでは……」
「お幸さん!」
 上ずった声と共に、手が伸びた。 ふたりは固く両手を握り合い、互いの眼に見惚れた。
「受けてくれるんですね、わたしの気持ちを?」
 天に昇る心地とは、こういう気持ちを言うんだろうか、と、お幸はかすみのかかった頭でぼんやり考えた。 まぎれもなくその夕方はお幸にとって、生涯で最も幸せなひとときだった。


 夕陽が寺の塀を赤く染める時刻になって、ようやくお幸はいくらか自分を取り戻し、縁側から立ち上がった。
「もう戻りませんと」
「待って」
 伊織は懐に手を入れ、ごく小さな袋を取り出してお幸の手のひらに載せた。
「母からです。 伽羅木〔きゃらぼく〕だそうです」
 それは、非常に貴重な匂い袋だった。
 



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