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面影 31
「こちらへ来てください」
伊織はお幸の手を引いて、奥にひっそりと建っている庵のほうへ導いていった。
座敷の端に腰を下ろすと、伊織は熱心に話を続けた。
「家族は母と弟です。 亡き父は加賀から養子に来たので、身近な親戚はいません。 あなたに気詰まりな思いをさせるようなことはないはずです。 ですから」
ですから? 一度は沈んだ心が、次第に揺れ動き始めた。 遠慮して庭にしゃがんでいたおせきまでが、驚いた様子で顔をもたげた。
声がかすれてきたため、咳払いして喉を晴らし、伊織は先を急いだ。
「やっと話ができるようになったばかりで、気が早すぎると思いますが、やはりどうしても言いたいのです。 手後れにならないうちに。
考えてみてくれませんか? つまり……夫婦〔めおと〕になってほしいのです」
お幸は無意識に袂を持ち上げ、手に巻きつけたりほどいたりしていた。 何と言えばいいかわからない。 もちろん本心はひとつ。 はい! と言いたい。 喉から手が出るほど口に出したかった。
だが、声にできなかった。 あまりにも意外で、予想もしていなかっただけに、心がごちゃごちゃになってどうにもならなかった。
大きな塩辛とんぼが灯篭のてっぺんに止まり、銀色の羽をふるわせながら前足で目を盛んに拭った。
伊織の声がかすれを帯びた。
「性急すぎましたか?」
「いえ」
また目まいが襲ってきた。 ふらりと首を揺らすと、お幸は呻くように答えた。
「嬉しいです。 でも、伊織さまは総領息子(=長男)、私も一人娘で店の跡取り。 その上、身分が……」
「身分など!」
笑いの混じった調子で、伊織が遮った。
「形だけ士分の養女に入ればよろしい。 どうにでもなります! ただ」
言葉がわずかに途切れた。
「お幸さんが本当にわたしと添いたいと思ってくれるかどうか。 それが一番の問題です」
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