表紙

面影 26


 あやうくおせきの腕に寄りかかって、重心を取り直したものの、お幸はまだ快い目まいの中にいた。
――伊織さま……そういう名前なんだ。 なんて響きのいい、この人らしい名前…… ――
 しかも相手は、先にお幸の素性を知っていた。 そして、心にかけていてくれた……!
嬉しさきわまって、お幸は今すぐここで夢が覚めてもいいと思った。 こんなの全て夢の中なのだ。 そうにちがいない。
「いえ、あの縁組は……」
 とうに壊れてしまった、と答えようとしたお幸の袖を、おせきが引いた。 軽々しく事情を話してはいけないと、たしなめる仕草だった。
 伊織の息が荒れた。 つんのめるように気持ちが激しかけていた。
「あの……取りやめにはできませんか?」

 おせきがポカンと口をあけた。 あまりにも唐突な申し出に、お幸もあっけに取られて相手を見返すばかりだった。
 水を被ったように、伊織は激しく首を振り、言い直した。
「すまない、性急すぎました。 ただ、ここで会えたのは、きっと天が縁を与えてくれたのだと解釈してしまって……」
 また言い過ぎたことに気付き、彼は一瞬顔をくしゃくしゃにして、唇を噛んだ。
 そうだ、この人は激しい人だったんだ――祭りの日、たった一人で台を守りきった勇壮な少年の姿が、目の前のきりりとした青年に重なった。 ふっくらした顎は締まり、細かったうなじはしっかりと筋肉がついていたが、今でも彼は細身で、品があった。
 男に誘われて会いに来たということは、気のあるそぶりを見せたことになる。 彼に心を打ち明けさせたのは、他ならぬお幸自身だった。
 おせきの目配せにもかかわらず、お幸は一歩を踏み出した。 そして言った。
「縁組は、もう壊れてしまいました」



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