表紙

面影 12


 娘は土間に目を落としたまま、横に首を振った。
「いいんです。 もう頭が冷えました。
 私が来たことは、清次郎さんには内緒にしておいてください。 お願いします」
 肩をすぼめた後ろ姿が、木枯らしの吹く大路を小さくなっていった。 


 よく考えた末、お幸はその娘の話を清次郎に言わないことにした。 先々は祝言〔しゅうげん〕すると決まってはいても、二人はお互いの仕事で忙しく、ほとんど言葉を交わす暇がない。 わざわざ引き止めて内緒話をするような親しい仲にはなっていなかった。
 だが、貧しい娘の姿はしばらくお幸の心に引っかかっていた。 無事に家へ帰れただろうか。 まさかとは思うが、冷たい川に浮かんだりしていないだろうか……


 年内に年号が改まり、元治から慶応となった。 黒船が押しかけてきてから幕府は浮き足立ち、京の都では騒乱が繰り返されているというが、飯坂はまだ穏やかで、普段通りの日々が続いていた。
 矢柄屋では、手代の由吉が番頭に昇格し、大番頭となった治助は、少しずつ店の財産をお幸にまかせる準備を始めた。
「これが倉の鍵です。 跡継ぎはお嬢さんですから、財産はしっかりと押えていてください。 店の帳簿のつけ方を知っているのは、わたしのほかは由吉とお嬢さんだけにしてありますからね」
 清次郎は思った以上に利発な若者で、真面目に仕事を覚え、評判がよかった。 それでも治助は、若いお幸に言ってきかせた。
「人を信じるのはよいことです。 だが、相手の分を越えて信じきってはいけません。
 人間は弱いものです。 目の前に財布がだらしなく置いてあったら、どんなにしっかりした人でもつい持っていってしまうかもしれません。 そんなとき、盗んだ者だけを責められますか? 財布を置き去りにした方にも、隙があるんじゃないでしょうか」
 治助は知っていた。 若い二人がお互いに好き合ってはいないことを。 礼儀正しくしてはいるが、清次郎は自分からお幸に近寄ろうとはしないし、お幸にいたっては、ときどき清次郎がいることさえ忘れてしまって、通用口に棒を立てて締め出しをくわせたりしていた。
 暗くなってから清次郎がなぜ外に出るのか、誰も知らなかった。 酒の臭いがするわけでなし、悪い遊びをしている気配もない。 だから黙認されていたものの、夜のそぞろ歩きが好きで、という彼の言い訳を、治助は信じられなかった。
 由吉も清次郎を怪しんでいた。 雇い人たちは団結して、清次郎が店の金に手を出せないように用心した。



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