表紙

面影 112


 すがってきた幸の手を、伊織はしっかりと掴んだ。 戦いで引き裂かれる前と同じ、頼もしい手触りだった。
「戻らなければいけないものでしょうか」
 呻くような声で、幸は尋ねた。 伊織は、ほとんど間を置かずに心を決めた。
「いや、世の中は音を立てて変わっている。 弟のように、わたしも自分の道は自分で切り開こう」
 たちまち幸の顔が輝いた。 伊織が何を目指そうと、どこへ行こうと、もう離れないでいいのだ。 胸が大きく弾けて、のびのびと息が吸えるようになった。
「これからどこへ行く?」
 進藤の問いに、伊織は少し考えて答えた。
「弟が士分を辞めて、中根商事というところで番頭をしている。 とりあえず、その住まいへ」
 まだ揺れ動いている幸の視野に、正月出会った若い男の顔がくっきりと浮かんだ。
「誠吾さん…… 初詣のときに会いました。 思い出せなくて、ご無礼をしてしまいました」
「事情があったのだから。 わたしからよく話す」
「いいから、早う行け」
 進藤に突っ放すように言われて、二人は礼をすると、幸の案内で裏口へ向かった。

 台所は真っ暗ではなく、ぼんやりと明るく浮き上がっていた。 ぎくっとして立ち止まった幸は、土間の真ん中で灯りをかざし、目の縁を赤く濡らしているお明を見つけた。
「お明……」
「やっぱり行っちゃうんですか?」
 寝巻きに半纏〔はんてん〕を引っかけた姿で、お明は涙声を出した。
「もうちょっとしたらお気持ちも和らいで、進藤さまの奥方になられるとばっかり」
「お明、この人は私の夫で林田伊織といいます。 戦死したと聞かされていましたが、生き延びてくれていたんです」
 その語りが低く押えてはいるが弾む調子なのを、お明は許せない気持ちだった。
「確かに旦那様なんだから、連れていっても仕方がないです。 それに、何も覚えていなかったゆき子さまに気を遣って、進藤さまは手も握っていない。 でも、でもね、屋敷の者はみーんなゆき子さまが奥様だと思って暮らしていたんです!」
 困って、幸は濃い睫毛を伏せた。
「よくしていただきました。 この家は、吹雪の日の囲炉裏端〔いろりばた〕のようなところでした。 ありがとう、お明ちゃん。 お初さん、賀川さんに柳瀬さんにもありがたかったと伝えてくださいね」
「いやです!」
 だだっ子のように、お明は身を揉んだ。

 だが、ふたりがひっそりと裏口を抜け、木戸まで行った後、最後の名残と幸が暗く沈む母屋を振り返ったとき、裏戸から二つ顔が覗き、小さくお辞儀するのがわかった。
 幸の胸が一杯になった。 お明と、お初だ。 幸も二人に頭を下げて別れを告げた。 その一礼は、恐ろしい記憶の闇から守り、平和な日々を与えてくれた進藤家全体への、深い感謝のしるしでもあった。
 冬特有の鋭い光を放っていた月が、雲間に姿を隠した。 幸は木戸を出てきっちりと閉じ、伊織と共に、細い路地裏へ、そして新しい人生へ、決然と足を踏み出していった。



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