表紙

面影 111


 伊織の胸が、大きく盛り上がった。 声が音を失い、囁きとなった。
「わたしは増上寺預かりの身。 何も持たぬに等しい。 それでもわたしを選ぶというのか?」
「選ぶもなにも」
 進藤がゆっくりと言った。
「とうに旅支度しとる」
 はっとした様子で、伊織は幸の服装を改めた。 気持ちが上ずっていたため、これまで見落としていたのだ。
 進藤は、ちょっと皮肉な目つきで幸を眺めた。
「女子一人で、冬の山越えは無理じゃ言うとろうに」
 幸は、夫から手を離して廊下に正座し、両手をついた。
「いつまでも進藤様のお心の広さに頼っているわけにはいきません。 ひっそりといなくなるのが一番の上策だと思いまして。
長い間、ひとかたならぬお世話になり、お礼の言葉もございません。 ご恩は一生忘れません」
「忘れてつかあされ」
 進藤はあっさり答えた。
「会津では子供とも女子とも戦うた。 死にものぐるいの者は強い。 撃ち合うとるときは敵じゃが、後味の悪さは……
 じゃけん、罪滅ぼしじゃ。 我が心をなだめるためのな。 気にせんでよし」
 幸は深く頭を下げた。 下げながら思った。 進藤の声が、いつもより更にこもっていると。
 幸も確かに彼に惹かれていた。 だがどうしても新しい生活に飛び込めなかった。 心が透明な鎧を着ていて、記憶が戻らなければ、心も戻らなかったのだ。 そして、封印された記憶の中には常に、伊織が輝いていた。 幸が生きる支えにしていた、あの日の思い出と共に。

 静かに立ち上がった幸は、伊織を見上げた。
「まだお預けは続くんでしょうか?」
「わからない」
 伊織は辛そうに答えた。
「会津は尋常でなく憎まれている。 いつになったらお咎めが解けるか」
「長州にも言い分はある」
 進藤がぽつんと言った。
「禁門の変の後、長州藩の屋敷は没収。 藩士は京、大阪、江戸で謹慎処分とされた。
 京都はみな逃げ出し、大阪は話し合うて国許へ帰された。 じゃが、江戸ではえろうしんどい目に遭わされ、ふここち(病気)で大勢がのうなってしもた」
 幸はふるえあがった。 その仕返しで、せっかく生きて戻った伊織の身に何かが起きたら……!



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