表紙

面影 109


 障子の外で、ゆき子は呼吸するにも気を遣っていた。
 聞き覚えのない声で語られた、自分自身の昔の姿。 それはとても不思議で、気詰まりさえ感じることだった。
「そいで、どういても妻にせにゃいかんと?」
「一度はあきらめた。 兄が急死して故郷に呼び戻されたのでな。
 だが、その故郷でもう一度めぐり逢った。 運命だと思い、気後れを捨てて話しかけた。 心が通じたときは、今生の夢かと思うほど嬉しかった」
「惚れぬいとるな、おまんは」
 進藤は笑い出した。
「こがいに好き好きと正直に言う男は初めてじゃ」
「だからこそだ!」
 男は声を励ました。
「わたしは幸と所帯を持てて幸せだった。 幸もわたしや母によく尽くしてくれた。
 今度は幸に選ばせてやりたい。 日本は土台から引っくり返り、新しい時代に入った。 これからは官軍の世、おぬし達の世の中だ」
「そりゃわからん。 今の臨時政府でも中はややこしいし、しんどいもんじゃ」
「だろうな。 勢力争いはいつも生ぐさい。
 そうだとしても、弟の話だと、幸はここで水を得た魚のように活き活きしているそうだ。 それなら今のままがいい。
 だから頼む。 他に女を求めるなら外でしてくれ。 この屋敷にだけは連れ込まないでほしい!
 言いたいことはそれだけだ。 わたしは戦いで死んだことにしておいてくれ。 後はよろしゅう」
 小さく吐息をついて、男の立ち上がる気配がした。 ゆき子はしびれたように廊下ですくんでいて、男の立てる衣擦れの音にどきっとなった。
 進藤が急いで呼びかけた。
「待て。 実はゆき子さんはな……」
 しかし、男はなめらかな身のこなしで、あっという間に障子を開き、廊下に踏み出していた。

 暗い廊下に人の気配を察して、彼の動作はぴたりと止まった。 そして腰の剣に手をかけ、敏捷に振り向いた。
「誰ぞ!」
 ゆき子は口をわずかに開けたが、声は干上がってまったく出なかった。 座敷の中でがたりと音がし、進藤がごそごそと出てきて燭台で照らした。
 揺れる炎の灯りで、夫と妻は同時に相手の姿を見た。 男は、旅装に身支度を整えた色白の女を、そしてゆき子は、額に薄い傷跡を残すも、鼻筋の通った清冽な顔立ちの若い男を。




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