表紙

面影 110


 二人が棒を飲んだように立ち尽くし、見詰め合っていると、ゆき子に向かって進藤の柔らかな声がした。
「こん人がゆき子さんの連れ合いじゃと。 名を、思い出せるか?」
 ゆき子の首が、頼りなく揺れた。 唇が震えた。
「あの……」
 火のようなかたまりが胸を上下していた。 だが意識まで上ってくることはなく、曼珠沙華の赤い花だけが幻となって目先にちらついた。
 男の口が、ためらいがちに開いた。
「思い出す? 何のことだ? まさかわたしを忘れたはずは」
「あのな」
 進藤は障子のへりに掴まって、低く咳をした。
「わしの部下がゆき子さんを撃ってな」
 たちまち男の顔に緊張が走った。
「なんと!」
「立ち入り禁止の戦場におって」
「会津はどこもかしこも戦場だった!」
 男は声をかすれさせた。
「そうじゃが、特に戸ノ口原は入ってはならん所じゃき」
「戸ノ口原……!」
 ゆき子と顔を合わせてから、初めて男が大きく動いた。 二歩でゆき子の前に立ち、まじまじと額を凝視した。
「そこに……わたしと同じところに傷がある。 深手ではなさそうだが」
「かすっただけじゃ。 ただ、倒れしときに頭を打ったんか、なんも覚えとらんかったき」
 ゆき子は、すぐ前に立つ相手の顔に、必死で目を走らせていた。 じろじろ見るのは礼儀に叶わない。 知ってはいても、見つめずにはいられなかった。
――この人だろうか。 この人をこそ、私は激戦の地まで探しに行って、敵兵に出くわしたんだろうか――
 その瞬間、割れるような頭痛が襲ってきた。 目を押えてがくっと倒れかかるゆき子を、男が急いで手を伸ばして支えた。
 暖かい肌を袖の上から感じとったとたん、頭痛が不意に脈動に変わった。 そして次第に遠のいていき、代わりにおののきが全身に広がっていった。
 耳の奥で、変声して間もない少年の涼しげな声が木魂した。 思い出が乗り移ったように、ゆき子はか細くその声を繰り返した。
「…… 一人に大勢で打ってかかるほうが、遥かに武士の本分にもとるものぞ」
「え?」
 ぐらりとしたゆき子の口から洩れたその言葉が、あまりにもその場にそぐわなかったので、男は耳を疑った。
「一人に大勢とは……」
「屋台の上から聞こえたんです」
 かすれ声で、ゆき子は答えた。 その間も、少年の姿は次第にはっきりとした形となって、脳裏に大きく浮かび上がった。 祭のざわめき、人いきれ、そして、どっと沸きあがる見物客の歓声までも……。
「一度で覚えました。 難しい言い方で、中身はよくわからなかったけれど。
 風車のように棒を振り回していましたねえ。 竹が日の光に当たって眩しくて……
 あなたも眩しかった。 凛々しくて、雄々しくて……」
「幸!」
 男はカッと目を見開き、痛いほどゆき子の腕を掴み直した。

 ひとつの名前が、どっとゆき子に落ちかかってきた。
――伊織様……伊織様だ……そう、この人は、私の大切な、伊織様……!――
 またたく間に、ゆき子の、いや、幸の眼は涙で見えなくなった。 掴まれた腕を上げて逆に握り直し、幸は子供のように泣きじゃくった
「伊織様! 野っ原へ探しに行きました。 どこまでもどこまでも歩いて……どんなに草を掻き分けても伊織様は見つからなくて……。
 嫌です、もう置いていかないで! あなたがいないと、幸は生きていけません!」




表紙 目次文頭前頁次頁
背景:White Wind
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送