表紙

面影 106


 塀の上から庭の柔らかな地面へ、侵入者は軽々と降り立った。 そして、ほとんど迷うことなく庭を横切って走り、母屋の縁側に足をかけた。
 黒い着物に同じく黒のたっつけ袴、そして頭には黒手ぬぐい。 忍びの者かと思わせる風体だ。 暗殺者に違いない! にわかに襲ってきた緊張のあまり、ゆき子は顎ががくがくと震えた。
 短銃は持ってきている。 だがまさか、家を出る前にこんな事態になるとは思ってもみなかったから、荷物の奥に潜ませてしまった。
 細い木の陰でじっとしているだけなので、手を動かせば曲者にすぐ気付かれるだろう。 どんなに気がせいても、男が縁側に上がり、廊下に入って見えなくなるまで、銃を取り出すことはできなかった。

 侵入者はあっという間に縁側から廊下に移り、後ろ手に雨戸を閉め切った。
 ほぼ同時に、ゆき子も行動を起こした。 もどかしく風呂敷包みの底を探りながら、忍び足で勝手口に回り、廊下を爪先立って走った。
 曲がって、長く見通せるところに出たが、人影はもうなかった。 どこかの部屋に入ったか、突き当たりの角を更に曲がって玄関のほうへ行ったか、どちらかだ。
 ほぼ真っ暗だ。 雨戸の節穴から細く差し込んでくる月の光をわずかな頼りに、ゆき子は用心しいしい歩を進めた。
 やがて、進藤の寝室とおぼしき辺りに薄く灯りがつき、低い話し声が聞こえてきた。 その片方はまぎれもなく、柔らかくて聞き取りにくい進藤のものだった。

 ゆき子はその場で動きを止めた。 進藤の声には、切羽詰った響きはなかった。 むしろ穏やかで、楽しげにさえ聞こえた。
「わしにゃわからん。 なんでもちっと早う来ん?」
 相手の声が、初めてゆき子の耳を打った。 囁き混じりなので地声とは言い切れないが、それでも艶のある美しい声音だということは感じ取れた。
「それは、国を失ったからだ。 護るべきもの、寄って立つ礎を、突き崩されたからだ」
「じゃけん言うて、家族まで捨てるんか?」
「捨てはしない!」
 美声が激した。 だがすぐに自分を取り戻し、また静かな囁きに返った。
「幸〔ゆき〕は確かにわたしの妻だ。 だがおぬしの思う、ただ縁あって我が家に嫁いできたというような女ではないのだ」



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