表紙

面影 105


 綾乃は、四半刻ほど進藤と語らった後、誰にも気付かれずにそっと帰っていった。
 少し経って、夕食は何にするかゆき子が訊きに行くと、進藤は布団を体に巻きつけてあぐらをかき、上目遣いに、入ってきた彼女をじっと見すえた。
「なあ」
「はい?」
「いつから知っておった?」
 わざといかつい言葉遣いをするのが可笑しくて、ゆき子の口元がほころんだ。
「あなた様が白粉だらけで帰られた晩から、何となく」
「うわ」
 進藤は、だいぶ血色の戻った顔をしかめた。
「そんなことが! 気いつけにゃあいかんな、深酒は」
「心が満たされれば、それでいいのでは」
 ゆき子は、さらりと答えた。
「どうせこの世は一夜の夢。 求め合うに遠慮はいりません」
「慎ましいおぬしが、大胆なことを」
 進藤は驚いた様子だった。 ゆき子も、自分の言葉に自分でびっくりした。
 大胆……それがもしかすると本当の姿なのかもしれない。 今は元気を失っているだけで、前は心の命ずるままに恋を求め、愛しい人を追っていたのかもしれない。
 ゆき子は焦点を定めずに、ぼうっと畳の目をたどった。 そして、頭の奥で木魂が呼び返すのを聞いた。
『私はただ、あの方に会いたいだけ。 顔を見て話が聞ければ、もう何も望まない』
 あの方…… そこには確かに、人の名前が入っていたはずだった。 誰なのか。 夕暮れをかすめて飛ぶ蝙蝠のように、ちらりと記憶の闇に羽ばたき、激しい胸の高ぶりを呼び起こすのは。

「どこを見ている?」
 不意に尋ねられて、ゆき子は我に返った。 視線を向けると、進藤がきらきら光る眼で見つめていた。
「魂の抜けた顔じゃ。 その顔が辛うて、真に心安うはなれんじゃった」
 ゆき子は胸を衝かれた。 たとえ記憶がなくとも、自分の心には誰かがしっかりと棲みついている。 おそらくは天に飛び去ったその影を、進藤は常に感じ取っていたのだ。 
「私の気持ちは、半ば冥土に入り込んでいるのかもしれません」
 首を垂れてうつむいたまま、ゆき子は疲れた口調で応じた。

 お互い気持ちを励まして、二人は明るい口調に戻った。 夕食は、もう何でも食べられるということで、みんなと同じ鯖の煮付けとしじみ汁にした。 明日はもう起き上がって座敷に出てもかまわないと医者に告げられたことを話すと、進藤は大喜びだった。



「ここは冥土の三里塚」
 縁起でもない唄を小声で口ずさみながら、ゆき子は行灯に覆いをして、こっそり荷造りをしていた。 時は既に九つ(=深夜零時)に近くなっている。 昨夜のうちに床下から取り出しておいた金の包みをしっかりと腰に結わえて、ようやく準備は完了した。
 音をさせないように障子を開けると、幸い外は晴れで、薄い千切れ雲の合間を月が忙しく通り抜けるのが見えた。
 用意した草鞋で足元を固め、ひっそりと庭に降り立ったゆき子は、母屋に手を合わせ、しばらく頭を垂れた。 尽くせぬ恩を受けた進藤洋一郎、そして、常に味方となって支えてくれたお初、お明、親切な従卒の賀川に柳瀬。 みんな、今のゆき子には仏に思えた。
――ありがとう存じました。 ご恩は未来永劫忘れません。 どうぞいつまでもお幸せに――
 祈り終わって顔を上げたとき、かすかな物音が耳に届いた。
 何かが塀に乗ったようだ。 猫か? いや、もっと重い音だ。
 素早く庭木に身を隠して、ゆき子は暗がりに目を凝らした。



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