表紙

面影 107


 短銃を握りしめたゆき子の指が、氷のようになった。
 妻。 わたしの妻……!
 鮮やかに忍び込んだ黒装束の男が、たった今ゆき子のことを、そう呼んだのだ。

 だが、ゆき子は動かなかった。 完全に信じたわけではなかったからだ。
 人は嘘をつく生き物だ。 まして今の世は、まだ戦時下と言っていい状態で、何が起きても不思議ではない。 この男は、梅野閣下の政敵が腹心の進藤を殺そうとして差し向けた暗殺者だが、気付かれてしまったのでとっさに適当な言葉を並べて油断させようとしているのかもしれないのだ。

 全神経を集めて聞き入っていると、男は更に話を続けた。
「おぬしには覚えがないか? あるところ、あるきっかけで、がらっと人生が変わってしまうことが?」
 進藤は少し考えていた。
「うーん……この度の戦争かあらんな。 人が人を食う。 世ん中かいさまになってしもうたき」
 進藤はわざとお国言葉でしゃべっていて、男にはよく理解できない様子だった。
「かいさま?」
「あい。 漢語なら、逆転、いうんかな」
「確かに」
 男の声も沈んだ。
「虚しかった。 この眉間の傷を作った弾丸が、鉢巻の金具で逸れずに額へ食い込んでくれていたら、もっと楽だったろうと思ったときもあった」
「おまんさ、いずこにおった?」
「え? ああ、どこにいたかというのか?
 戸ノ口原の戦で額と胸を撃たれた後、仲間が撤退するときに肩を貸して連れていってくれた。、だから負傷者として治療してもらうことができた」
「よき友を持ったな」
 進藤は急に侍言葉になり、小さく咳をした。
「それから猪苗代へお預けとなり、正月からは東京に移された」
「で、今宵はこっそり抜け出してきたと」
「そうだ」
 男の声に張りが加わった。
「わたしはおぬしと直談判に来たのだ。
 幸をもっと大切に扱ってほしい。 おぬしも戦で心が傷つき、お幸に癒されたというなら、なおさらだ!」
 えっ……?
 思わぬ話の成り行きに、ゆき子は愕然とした。

 驚いたのは進藤も同じで、いきなり早口になった。
「おぬし、奥方を取り戻しに来たのではないのか?」
「敗残で屋敷お預けの身だ。 今来てどうする」
「どうすると言われても」
 進藤は苦り切った。
「せんないのう。 ええ加減につかあされ」
「腰抜けと思うか? 妻を奪われて平気だと?」
 一つ息をついて、男は鋭く言った。
「そうではない。 できるなら今すぐにでも幸の手を引いて、逃参してしまいたい。
 だが幸は、わたしと行きたいだろうか? 気の合ったおぬしと、ここで暮らすほうが、ずっと望ましいのではないか」
「そりゃわからん」
 進藤はややぶっきらぼうに答えた。
「本人に訊かんと。 おまんに会わせてみんと」
「会ったら離れられるか!」
 男は突然、激した。
「去年見知ったばかりのおぬしとは違う。 わたしは七年越しで幸を想っていたのだぞ!」
 進藤は、特に驚かなかった。
「幼なじみか。 筒井筒いうやつじゃな」
「そうではない」
 男はきっぱりと否定した。
「おそらく幸は、わたしが近くにいることなど知らなかったはずだ。 あることで、わたしの生き方を大きく変えてしまったことも」




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