表紙

丘の家 86


 バッグに入れてあったジーンズとシャツの通勤姿に戻って、史麻は街に出た。
「昨日と同じ服のまま?」と仕事先でからかわれたとしても、もう構わない気がした。
 玄関ドアのところで別れるとき、なんだか引力のようなものが起きて、しばらく二人で手をつないでいた。 離れ難かった。




 その日はスチールの撮影と、午後からはイギリス映画の試写会があった。
 試写が終わってロビーに出ようとしたとき、雑誌社の記者と名乗る男が不意に接近してきた。 どこから聞きつけたのか、片瀬家の事件について質問しようとしたのだ。 すぐにマネージャーの加南子が割って入ってくれ、無事に試写室を脱出できたが。



 急いで飛びこんだ加南子の車の中で、夕食をどこで取ろうか話し合っていたとき、史麻の携帯が鳴った。
 かけてきたのは、『山根』だった。
「ちょっとごめん」
 加南子に断わって耳に当てると、聞き覚えのある澄んだ声が、気まり悪そうなトーンで話しかけてきた。
「ええと、今忙しい?」
「仕事がちょうど終わって帰る途中」
 声は元気付いた。
「よかった! あの、説明したいことがあるんで、どこかで会えないかな」
「これから?」
「そう。 僕もたった今仕事が済んだところで」
「そうなの……私は渋谷にいるんだけど。 今車の中」
「そう。 じゃあっと……渋谷東急の前で会わない? 栄通りの、スタバのあるほうで」
「ああ、はいわかりました」
 電話を切ってから、史麻は加南子に頼んだ。
「東急に行ってもらえる?」
 史麻に一瞬顔を向けて、加南子はパチッとウィンクした。
「いいよ。 珍しいなあ。 本命?」
「じゃない」
 史麻は、きっぱりと答えた。




 大通りを走って、二分ほどでデパートが見えてきた。 時間は七時少し前。 空がそろそろ翳りかけていた。






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