表紙

丘の家 82


 ぎょっとして首筋が冷たくなった。
 日比谷線の東銀座駅口だ。 まさかこんな賑やかなところで、痴漢や通り魔に遭うことはないと思うが……
 斜めに身をよじって避ける態勢を取りながら、史麻はおそるおそる振り向いた。


 真後ろに、市郎が立っていた。
 緊張した様子で、目がいつもより大きく見えた。
 史麻は、たじたじと後ずさった。 さっきの無念さ、恥ずかしさが倍になって蘇ってきた。
 靴の踵が段の角にかかり、宙に浮いた。
「危ない!」
 よろけたところを引き戻されて、横顔が市郎の胸にドンとぶつかってしまった。
 振りほどこうと、史麻は大きくもがいた。 腕を突っ張って男を押しのけようとしながら、苦く捨て台詞を吐いた。
「もう話はないはずよ! いろいろご迷惑おかけしました!」
「待てよ! 俺でいいのか?」
 必死な声が額に降りかかってきた。


 とたんに史麻は、抵抗する力を失くした。
 興奮の名残で短く息をしている体を強く支えたまま、市郎はもう一度、念を押した。
「本当に俺でいいのか? 嫌ってたはずだろう? そのはずだよ。 俺だってわかってた。 すごく失礼な態度取ったから当たり前だ」
 史麻はどきっとした。 確かにそうだったが、本人が自覚しているとは思わなかった。
 動きを止めた史麻に、腕が回った。
 初めは遠慮がちだった。 しかし、抵抗がないとわかると、不意に激しく力を込めた。
 車の音、行き交う人の声、店から響く音楽……
 雑多な音に囲まれて、二人は彫像のように、ただ無言で抱き合った。




 ゆっくりと、心がほぐれていった。 そして、輝きはじめた。
 男の腕にくるまったまま、史麻は酔いしれたように顔を揺らして、シャツの胸にこすりつけた。
「怒ったんだから」
「うん」
 ごく低い声が返ってきた。
「もう会うの止めようと思ったんだから」
「そうか……」
 市郎は小さく溜め息をついた。
「危ないところだったんだな。 麓郎の言うとおり」




 ひっそりと寄り添って、二人は道を引き返した。 歩道の脇に、白いソアラが停めてあった。
 手入れのいい車体を見渡して、史麻は首をかしげた。
「車二台持ってるの?」
「いや」
 乗り込みながら、市郎は苦笑して答えた。
「オープンカーは千葉の友達に借りた。 派手にしてくれって片瀬さんから注文があって」


 灯りを落とした車内に並んで坐った後、どちらからともなく再び抱き合った。
 今度のキスは甘かった。 融けてしまいそうなほど熱く、唇が触れるたびに快いしびれが走った。
 好きな人を抱きしめるのって、どうしてこんなに気持ちいいんだろう、と史麻は思った。 掴んで、引き寄せて、もみくしゃにしてしまいたい。 それほど愛しかった。
 幸せだった。






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