表紙

丘の家 80


 入ってきたのは麓郎だった。 紺色のシャツの上にベージュのサマージャケットを着ていて、洗いたてのようにさっぱりした感じだ。 テーブルに席を取っている二人の娘が、さっそく麓郎に視線をチラチラと送った。
 救われたように、市郎は明るい声を出した。
「来ないかと思った」
 微妙に複雑な表情になって、麓郎は二人の脇をいったん通り過ぎ、市郎の向こうの椅子に位置取りした。
「そうしようかとも思ったんだけどさ」
「何言ってるんだ。 俺が用事ありなの知ってるだろ? 時間が押してるんだよ」
 語尾が消えないうちに、市郎はもう立ち上がり、万札をグラスの傍に置いてバーテンに頼んだ。
「この子たちに好きなもの飲ませてやって」
「はい」
 つられて史麻も腰を浮かせた。
「あの、まだ話が……」
「こいつから聞いて。 俺より詳しいから」
 そうじゃない。 違う話だ。 ごまかさないでよ――すっと遠ざかっていく背中に、史麻は気持ちをぶつけようとした。
 でも、できなかった。


 のろのろと坐り直した史麻を、麓郎はパチパチ瞬きしながら観察していた。
 それから、ずばりと言った。
「へえー、好きだったんだね」


 とたんに目の前が回転した。 左へ倒れそうになって、史麻は慌てて肘で体を支えた。
 市郎の残したマティーニをちょっと飲んでみて、麓郎は顔をしかめ、改めて注文した。
「僕はサイドカー」
「はい、只今」
「ジンよりブランデーがいいんだ」
 自分の爆弾発言を忘れたように、麓郎は史麻に説明した。 史麻のほうはそれどころではなく、片頬を引きつらせて詰問した。
「どうしてそう思うの?」
 麓郎は眉を軽く吊り上げた。
「だって、こう兄貴の腕に手置いてたでしょう? 君が自分から男に触るの、初めて見たから」
 史麻はうなだれた。 弟にわかるなら、兄にも察しがついたにちがいない。 それなのに、気付かないふりをして出ていってしまった。
 冷たいグラスを押しやるようにして、史麻は小声で呟いた。
「相手にされなかったってことなんだ」
「いや」
 思いがけなく、素早い答えが返ってきた。
「そんなはずないって」










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