表紙

丘の家 76


 さんざん笑われて、冷や汗をかいた。 そんなズッコケぶりをスタジオで見せれば、もっとテレビ出演が増えるのに、とカメラマンに言われたが、史麻は頑固に首を振った。
「そういうふうに、自分を作れないから」
「史麻ちゃん正直だもんな。 感情的ってわけじゃないけど」
 できるだけまっすぐ生きたい、と史麻は思った。 人生でも恋でも、小細工はしたくない。 だから今夜、あの人に逢いに行く。 そして、勇気を振り絞って、本心を訊くつもりだった。



 仕事帰りに、有楽町の近くでバスから降ろしてもらった。 時間は午後七時十六分だった。
 史麻は、八時までやっているデパートに入り、ゆったりしたトイレの化粧室で、バッグに入れてきたドレスに着替えた。 メイクもしっかり整えた。
 そして八時五分前、黒御影石の階段を下りて、史麻はぎこちない足取りで、バー『アクアリウム』に入った。


 中は落ち着いたチーク張りの内装で、奇抜な飾りはどこにもなく、重厚な雰囲気が漂っていた。
 市郎がどこにいるかは、すぐわかった。 カウンターの奥に腰かけて、左手で頬杖をついている。 前に置いたグラスは半分ほど減っていた。
 薄暗いほど控えめなライティングだった。 それなのに、市郎の座っているあたりが不意に眩しく思えて、史麻はたじろいだ。
 市郎はグラスを持ち上げ、目の前にかざして中身を透かした。 じっと眺めている口の端に小さな皺が寄って、気難しげに見えた。


 動かない足を、史麻はもてあまして唇を噛んだ。
――大人だ……面白くなさそうな顔してる。 私なんか待ちたくないみたい。 きっと面倒くさいんだ…… ――
 不意に、このままくるっと回って、逃げ帰りたくなった。 だが、もう一人の自分が心の奥で叫んだ。
――弱虫! うじうじしないの。 逃げたらもうチャンスはないよ。 行け、史麻!――
 背後からガヤガヤと、もう相当できあがった男たちが入って来た。 その雑音につられたのか、市郎が何気なく顔を振り向けた。
 すぐに史麻と目が合った。 とたんに憂鬱そうな表情は拭ったように消え、市郎は陽気に手を上げて、ひょいひょいと招いた。
「お、時間ぴったり!」







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