表紙

丘の家 73


 初めて味わう心の震えだった。 しゃべろうにも、喉がふさがって声が出てこない。 生まれたばかりの臆病な生き物が、胸の奥で息を潜め、必死に相手をうかがっているような気がした。
「もしもーし」
 くったくのない市郎の呼びかけが続いた。
「聞こえないよー。 声小さいのか?」
「あの」
 妙なガラガラ声が出た。 はっとして口を押さえたとたん、今度は涙で部屋がワッとぼやけた。
――やだ、どうしちゃったんだろう。 なにベソついてるの? ほんとに……何やってるの私――
 答えが返ってこないのを自分流に解釈して、市郎は少しテンションを落とした。
「まだ怒ってるのか? クレームは受け付けないよ。 むしろ超過料金ほしいぐらいだ」
「違う」
 あわてて立ち上がって、なんとか発声できた。 史麻は痙攣しそうな喉元を押さえて、詰まった調子で言った。
「ちゃんと会ってお礼を言いたいの。 事情も詳しく知りたいし」
「ふうん」
 市郎は軽く受けた。
「明後日まで四国へ行くから、水曜か木曜は?」
「水曜の夜がいい」
 間を置かずに、史麻は答えた。 一日でも早いほうがよかった。
「よし、じゃ、銀座のアクアリウムってバー知ってるか?」
「ええ」
 知らないけれど調べればいいと思って、史麻はすぐ返事した。
「水曜にそこで。 八時頃来られるか?」
「ええ」
 壁の予定表に視線を釘付けにして、史麻は早口になった。 その日は午後から予定が入っている。 でも六時前には終わるだろう。
「じゃその時に」
 電話はあっさり切れた。


 動悸がなかなか収まらなかった。 史麻は予定表に小さく丸をつけて待ち合わせの時間と場所を書き込み、乱れた足取りでベッドに近づくと、バタンと倒れ伏した。
――私が勝手に舞い上がってるだけだ。 わかってる。 でも……こんなにどきどきしたの、初めてだなあ――
 えいっと体を回して、史麻は仰向けになり、大の字で天井を見上げた。 切なさと不安が入り混じって、心に微妙な襞をつけた。
――最初は感じ悪いと思ったのに。 むしろ嫌いだったのに――
 嫌い嫌いも好きのうち、という昔のことわざが不意にひらめいた。 本当にそんなことがあるのだろうか。 それとも第一印象が間違っていたのか。
 史麻はまた寝返りを打って、体を丸めた。 自分がひどく小さくなった気がした。 いつも姉の後ろに隠れていた少女時代に戻ったように。








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