表紙

丘の家 69


 史麻は、足元の地面が崩れ落ちたかと思った。
 そのぐらい驚いた。 まだ靴を履いていないため、地面に直接ついた足裏が頼りなくて、斜めによろめいてしまった。
 歌手が花束を抱きしめるように、市郎は史麻を胸に引き寄せて、キスを続けた。 史麻は彼の脇腹に手を置いたままだった。 動こうとか逃げようとか、一切考えつかなかった。


 やがて顔を離すと、市郎はぼそっと言った。
「すれてないなあ」
 日頃と変わりない声を聞いて、わんわんしていた頭に血流が戻ってきた。 同時に、今の言葉に強い抵抗を感じた。
「モデルはみんな軽いとか、そう思ってるんなら……」
「おっと、そっちの方で怒るか」
 輪郭がぼんやりとしか見えない暗闇の中でも、市郎の口が愉快そうに広がるのがわかった。
「助けた分のお礼を貰ったんだ。 まだ逃げ切れるかどうかわからないから、ちょっと早いが」
 お礼って……! 人を食ったことを言われて、史麻はワッと顔が熱くなった。
「誰にでもこんなことしてるの?」
「するわけないだろ。 俺にだって好みはある」
 がさごそとポケットから靴を出しながら、市郎は低音で言った。
「さあ、これ履いて、とっとと行こうぜ。 裏門はどっちだ?」
「……こっち」
 振り回されている。 無性に悔しかったが、場合が場合だから、しぶしぶと史麻は答えた。


 竹の扉は史麻の胸ぐらいの高さで、外の道を覗くことができた。 用心して左右を見ると、人っ子一人いなかった。 それで史麻は、鉄棒の要領で上端に体を引き揚げ、またいで道に降りた。
 すぐに市郎も同じ動作で出てきた。 史麻は、肩に通していたバッグを下ろしてもどかしく携帯を出し、尾口の番号を押すと、急いで耳に当てた。
 嬉しいことに、すぐ応答があった。
「シマ子? 今どこ!」
「オグちゃんは? まだ駐車場?」
「いや」
 とたんに尾口は得意そうになった。
「ぐるっと廻って戻ってきたら、電気が消えててゾロゾロ男共が出入りしてるじゃん。 こりゃ手入れだなって、すぐピンと来たわけよ。 だから横に通り過ぎて、今巻山二丁目のバス停のそば」
「オグちゃんすごい!」
 ほっとして、史麻は涙ぐみそうになった。
「じゃ、迎えに来てもらえるね。 私もなんとか逃げたの」








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