表紙

丘の家 63


 だが、史麻にじっと目を据えていた横川は、ぎこちない動きにすぐ気付いた。 つかつかと歩み寄ってきてバッグをむしり取り、持ったままで壁近くのデスクまで行った。
 右の引出しから横川は、眼鏡ケースぐらいの大きさの白い箱を取り出した。 その中には、細型の注射器とアンプルが入っていた。
 小さな容器に針を刺して吸い上げながら、横川は舌で唇をなめた。
「どのくらいにすっかな。 この目盛りを越えるとショック死しちゃうから」
「殺さないでよ」
 ぎょっとしたように、菊乃が言った。
「わかってるって。 シャブ中にしちゃうだけ。 そうしたら、何言ってもまともに取り合っちゃもらえないからな」
 覚醒剤を打たれそうだと知って、史麻はパニックになった。 激怒と吐き気がこみ上げて、瞬間的に我を忘れた。
 いきなり史麻が飛びすさり、傍にあったパイプ椅子を自分めがけて振り上げたのを見て、菊乃はキャッと叫んで身を避けた。
 すかさず、史麻は全力で、椅子を窓ガラスに投げつけた。
 ものすごい音がした。 投げた本人も立ちすくむほどの轟音を立てて、分厚いガラスが粉々に砕け、崩れ落ちていった。
「こいつ!」
 注射器をふりかざして、横川が飛びかかってきた。 史麻が危うく斜め後ろに飛んで逃げたとたん、周囲が真っ暗になった。


 全館の電気が、一斉に消えたのだった。
 史麻は、とっさに奥の壁へ張り付いて、気配を消そうとした。 横川の激しい息遣いと、歯ぎしりの混じった囁きが聞こえた。
「畜生! ブレーカーが落ちたのか?」
「見てくる」
 素早く言い残して菊乃がドアをあけると、とたんに大広間でざわざわ言い交わす人の声が流れ込んできた。
「どうしたの? 停電なんて珍しいわ」
「酒がこぼれたよ。 早く明るくしてもらえんかね」
「今すぐに。 ちょっとお待ちくださいね」
 菊乃の陽気に装った声が遠ざかるのを、史麻は化石のように動かずに聞いた。

 できるなら、大きく穴が開いて微風が吹き込んでいる窓に近づきたい。 乗り越えて飛び出せば、そこは尾口のいる駐車場の右側だ。
 だが、窓の傍には横川がいた。 暗さでよくわからないが、かすかな息の音が伝わってくる。 史麻が逃げようとするのを見越して、動くのを待ち構えているのだ。
――電気がついたら、すぐ見つかってしまう。 せめてあの注射器を叩き落せたら――
 すぐ横に、もう一つパイプ椅子がある。 気付かれないように、史麻はじりじりとその椅子に向かって右手を伸ばしていった。






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