表紙

丘の家 52


 ちょうどうまい具合に、角の信号が赤に変わった。 加南子は舌打ちしたが、史麻は素早く歩道側のドアを開けて、先に立って歩いてきた葉山兄に笑みを投げた。
「葉山さん!」
 驚いた様子で、市郎はピタッと足を止めた。
「あ、こんな天気でも仕事?」
「葉山さんたちも?」
 追いついた麓郎がのんびりと説明した。
「今打ち合わせが終わったとこ」
 運転席で首を曲げて、麓郎の顔を見たとたん、加南子の目が輝いた。
「史麻ちゃん、お友達?」
「ええ、まあ」
 また雨が激しく落ちてきた。 史麻は思い切って、ビニール傘を広げようとしている兄弟を誘ってみた。
「撮影が中止になっちゃったんで、カラオケでも行こうかって話してたんですよ」
 さっと空気を読み取った加南子が、ずいと体を伸ばしてきた。
「一緒にどうですか? もう用事が終わったんなら」
 笑いになりきらない曖昧な表情で、市郎は弟を振り返った。
「どうする?」
「俺は混ぜてもらおかな。 この後は予定ないし、駅まで歩きたくないし」
「よしっ」
 一人で気合を入れて、市郎は風に持っていかれそうな傘を畳み、後部座席に乗り込んだ。 麓郎も後に続いた。
「よろしく頼みます。 葉山市郎。 こっちは弟の麓郎」
「こんちは! この子のマネージャーの河本加南子でーす」
 趣きは違うが、どちらもイケメンの兄弟を乗せて、加南子はご機嫌になって発車させた。


 雑居ビルの三階にあるカラオケ店で、四人は楽しくはじけた。 葉山兄は、嫌味でない程度に歌が上手で、ナツメロの『異邦人』から『シーソーゲーム』まで、さらっと歌いこなした。
 弟の麓郎は、わざとやっているのかもしれないが、歌の選択がとてもユニークだった。 たまの歌とか、「酒が飲める酒が飲める……」という繰り返しばかりのバラクーダの曲とかで、ロマンを感じさせるきれいな声と合うようなバラードは絶対に選ばなかった。
 史麻は『花』と『友達の歌』を選んだ。 歌は、ど下手ではないが上手くもない。 音程を外さないだけが取り柄だと思っている。 一方、加南子はなぜか松田聖子の曲ばかり歌っていた。
 加南子が『スイートメモリーズ』を雰囲気たっぷりに歌い上げているとき、片手にタンバリンを持って、もう片手で梅サワーを飲んでいた市郎に、史麻はそっと話しかけた。
「この間は急に電話しちゃってすいません」
 グラスをテーブルに置いて、市郎はふっと笑った。
「驚いたよ。 ほんとに何も知らないんだもんな」





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