表紙

丘の家 29


 ホテルを逃げ出したのが、五時過ぎだった。 まだ日の入りには間があって、街は明るく、週末の華やぎで溢れていた。
 ドレス姿といっても、セミフォーマルだから、歩道を歩いていても違和感はない。 ブックセンターを覗いてから日比谷線に乗ろう。 そう決めて、史麻は軽い足取りで歩き出した。

 平積みになったベストセラーをチェックしているとき、何かを感じた。 手に取りかけた本を置いて振り向くと、とたんに気配は消えた。
 何だろう――胸がざわついた。 確かに、誰かの視線にじっと見られていた気がする。 でも、それらしい人影はどこにもなかった。 客は周囲に数人いたが、みんな本を熱心に選んでいるか、隣りと立ち話をしていた。

 落ち着かなくなったので、結局本は買わず、史麻はさっさと家に帰った。 食事は、ヨーグルトとアボカドだけ食べて、さっさと寝てしまった。 つまらない午後だったという記憶しか残らない、退屈な半日だった。


 翌日、更に気の滅入ることが起こった。
 山手線の大塚駅近くにあるモデル事務所で、スタッフと次の仕事の打ち合わせをしているとき、携帯が鳴った。
 かけてきたのは、菊乃だった。 祝賀パーティーを早めに抜けたから怒っているのかな、と思い、史麻はいやいや通話ボタンを押した。
 だが、電話から出てきた声は、甘ったるいほど機嫌のいいものだった。
「史麻ちゃん? Tホテルに来てくれてサンキュ。 お母ちゃまも喜んでたわ」
「そう? よかった」
「それでね、お礼に、今度開くウチのパーティーに招待しようと思って。 明日の午後よ。 一時過ぎからなら、いつ来てもいいからね」
 あきれて、史麻は言葉も出なくなった。 自宅のパーティーに呼ぶのがお礼? いつ来てもいいって?
 今度こそはっきり言ってやる。 史麻は表情を固くして、大きめの声で答えた。
「明日は無理。 仕事があるの」
 菊乃は動じた様子もなかった。
「へえ、忙しいのね。 じゃ、次の土曜日。 ええと、二十三日よね確か。 予定は同じだから、適当におしゃれして来て」
「待ってよ!」
 もう電話は切れていた。

 毎週パーティーなんか開いているんだろうか、あのバカ――仕事もせずに遊び暮らしている菊乃に、なんで呼びつけられなければいけないんだ、と、史麻は珍しく頭に血が上った。 今どき花嫁修業の行儀見習いだと? ふざけるな! 無視してやる。 忘れたふりして知らん顔してやる!






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