表紙

 -99- 薄氷を踏む




  そこで、しびれたようになっていた傍聴席から、ようやく低い囁きが起き、廷内にゆっくりと広がっていった。
 検事は舌打ちしそうな表情になりながらも、反撃を試みた。
「では奥様ご本人の口から証言していただきたいのですが」
 なんだ、この野郎!
 怒りと当惑で、テオフィルの頬は燃えるように赤くなった。
「なんですと? わたしの証言では役に立たないとでも?」
「いえ、そんなことは」
 検事はたじたじとなり、テオフィルはますます腹を立てた。
「妻は繊細な性格で、人前に立つのが苦手なのです。 ましてこんな殺伐〔さつばつ〕とした場所で証言台に立つなど、もっての他です。
 それに今、わたしはこの目でベルトー氏を見て、あのときのレストランの男性だと自信を持って証言できます。 眼帯は取っておられるようだが、確かに彼でした」
 検事はなぜか、その言葉を聞いて嬉しそうになった。
「そのことですが、被告の眼帯はどちらの目にかかっていましたか?」


 うわっ。
 証言台の柵を持つテオフィルの指に、力が入った。
 そこまでは聞いていなかった。 そもそも何で、ベルトーは眼帯をしてないんだ。 どう見ても、目に傷を負っていた様子なんかカケラもないじゃないか。
 テオフィルはせっぱつまった。 変装なんかして、このインチキ男め、と、ピエロが憎らしくなった。
 確かにこの被告席の男は稀な美男子だ。 しかし、いい男につきものの自意識が感じられない。 服装も地味で、誠実さにあふれていた。
 くそっ、とテオフィルは開きなおった。 真面目な奴が、女から逃れるために変装したのなら、かけやすい目のほうに眼帯をつけるだろう。
 確かさっき、被告は右手で胸に触れていた。 右ききだ。
 テオフィルはまっすぐ前を見据えたまま、ぶっきらぼうに答えた。
「右でしたが、それが何か?」


 次の十分の一秒ほどが、死ぬほど長く感じられた。
 すると、プッと吹く声が後ろから聞こえ、新たな野次が飛んだ。
「もう悪あがきは止めなよ、検事さん」


 右で正解だったらしい。
 テオフィルは危うく、額にじっとりと滲んだ汗を拭きそうになって、寸前で思いとどまった。
 検事は眉が鼻につくほどしかめて、どすんと椅子に座り直した。
 裁判官と副裁判官たちは、ちらちらテオフィルのほうを見ながら、判決をまとめ始めた。
 法廷内の空気は、すっかり変わっていた。 もはやピエロ・ベルトーの無罪を疑う者は一人もいないようだ。 傍聴席で一塊になっていた若者たちから口笛が聞こえ、やがて判決をうながす足踏みが始まって、床が揺れ出した。
「静かに!」
 何度主席裁判官に怒鳴られても、足拍子は止まらない。 根負けした裁判官たちが協議を早めに打ち切り、無罪を宣告するまで続いた。


 たちまち傍聴席から、一人の女性が飛び出した。 ヴェールをかけていたが、奔馬そこのけに走るため、めくれあがって愛らしい顔がむきだしになった。
 彼女は物も言わず、被告席からよろめくように立ち上がったベルトーに抱きついてぶら下がった。 その前に七十センチはある柵を軽々と飛び越えたので、これがミレイユの友のリリなのだな、と眺めていたテオフィルは目を丸くした。
 二人がひしと抱き合い、キスしあい、頬ずりしながら夢中で囁きあっている姿を見て、胸が熱くなった。 ギロチン刑を免れたベルトーは、喜びで全身から生気がみなぎり、まさに輝いていた。
 テオフィルの心にも、嬉しさと新たな自信が生まれた。 これでミレイユを喜ばせることができる。 わたしは大きな賭けに出て、成功したんだ!
 正直、どっと疲れた。 待ち合わせのホテルに行って、早くミレイユに報告したい。
 お祭り騒ぎになった廷内から、テオフィルは大股で抜け出した。 歩く速度がどんどん早くなり、ほとんど走って玄関口を出ると、うれしい不意打ちが待っていた。 道の向かいにランベールの馬車が待っていて、その窓からミレイユが白い顔を覗かせたのだ。







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