表紙

 -86- 誕生を報告




 見送るアンリエットと目を合わせることもできずに、ミレイユが馬車の中で石像のように固まり、一刻も早くパリを離れることだけ考えていた、あの別れの日。
 アンリエットの母イヴォンヌは、高級娼館の女主人という立場にそむいて、娘の学校友達のミレイユを庇い、安全なモンルー侯爵夫人のもとに行かせてくれた。
 ところが迎えの馬車には、なんとあのジュスタン・デフォルジュ叔父まで付き添ってきた。
 ジュスタンは根が臆病者だから、姪のミレイユを奪った義姉にはさからえない。 陰険な怒りを振りまきながら歩き回る叔父を見て、ミレイユは背筋が寒くなった。
 金持ちの姪を取り上げられたうっぷん晴らしに、叔父が八つ当たりの相手を探すのはまちがいない。 権力のないアンリエット親子が、礼金のためではなく友情からミレイユを助けたと知れば、それこそどんな汚い手を使っても二人に復讐するに決まっている!
 だからミレイユは、とっさに決心した。 リリ(アンリエットの仇名)を失うのは身を切られるように辛いが、彼女が非情な叔父につぶされるのだけは絶対に避けなければ。
 だから無視した。 金だけのつながりのように見せかけた。 そして、大叔母の屋敷で安全に暮らすようになってから、三度本心を手紙に書いてイヴォンヌの娼館『メゾン・ド・ラシェル』にそっと送った。
 しかし、いずれの場合も返事は来なかった。 気の弱いミレイユにしてみれば、許してほしいと待ち焦がれる不安にさいなまれて眠れなくなる日々だったので、三回送ってナシのつぶてだと、もともと少ない勇気がすっかり消えてしまった。


 夫が留守で寂しいと、つい昔の悲しい出来事を思い出してしまう。
 ミレイユは、できるだけくよくよしないように気持ちを落ち着け、体調を気遣って訪ねてくる近所の奥さんたちと話し合って、気を紛らした。
 予定日より二日遅れて、陣痛が起こった。 望んだ通り、初産より経過が早く、三時間あまりでやや小柄な女の子が元気に生まれた。
 ほっとしたのと嬉しいのとで、ミレイユはジェルメーヌに叱られるほど早く起き出し、パリにいるはずのテオフィルに弾んだ手紙を書いた。
『大切なあなたへ
 喜んでください。 十日にあなたと私の長女ヴァレリーが生まれました。 とても健康で、目がぱっちりしています。 髪はあなたに似てつやつやした栗色なのよ。
 マッツが不思議そうに、なんども乳児室に来ては覗きこんでいます。 昨日なんか、ヴァレリーが揺り籠にいるときに手をつなごうとして、あべこべに指を掴まえられて動かせなくなりました。 赤ちゃんの握る力って、すごく強いのね』
 その手紙は郵便馬車ではなく、ずいぶんスピードを増した貨物列車で運ばれ、わずか五日で返事が届いた。 テオフィルは安産に胸を撫で下ろし、新たな子供の誕生をとても喜んでいた。
『愛しいミリーへ
 ヴァレリーの誕生をすぐに知らせてくれて、ありがとう。 母子共に元気で、こんなに嬉しいことはない。 もうオルレアンなど行かないで、家へ飛んで帰りたいよ。 相続の手続きは順調に終わったし。
 くれぐれも体に気をつけて、無理は絶対にしないでくれ。 君とマッツへのお土産は、もう買ってあるんだ。 今度は新しい娘への贈り物を買い足さなければね。
 いつも言っているが、君と子供達はわたしの誇りだし、大切な宝物だ。 少しでも困ったことがあったら、オルレアンのシャトー・ラングルへすぐ速達で知らせてくれ。 わたしがいつも気遣っていることを忘れないで』





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