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心が通って
とたんに、吹く風が冷たくなったような気がして、ミレイユはうつむいた。
思い起こせば、初めからテオフィルは積極的ではなかった。 ミレイユに声をかけ、散歩や美術館に連れ出し、親切にしてくれたのはモンシャルム子爵のほうだった。
ミレイユは、それでは物足りなかった。 連れ立って来はしないかと 彼の背後に伯爵の姿を探し、伯爵が最後に来たとき、飛びついて引き止めてしまった。
そうだ、ミレイユが選んだのだ。 テオフィルは一度も彼女を求めていないし、愛していると言ってくれたこともない。 好いていてくれるとは思うが、果たしてそれ以上かどうか、恋愛経験のまるでないミレイユにはわからなかった。
不意にミレイユが押し黙ってしまったため、テオフィルは心配そうな顔になった。
「どうした? 鳥肌が立っているが、寒くなったかい?」
「いいえ」
しょんぼりして下を向いたままの妻を見て、テオフィルはおろおろし始めた。
「では、わたしの言ったことが気に障ったのか?」
「え?」
ミレイユはびっくりして顔を上げた。
「いえ、まさか」
「じゃ、どうした? ついさっきまで楽しそうだったのに」
ミレイユは唾を飲み込み、考えた。
上流階級では、恋愛結婚はめったにない。 家柄と財産のつりあいで成り立つのが普通だ。 だから夫が必要以上に妻を大切にするのは珍しく、無視や浮気もよくあることだ。
それなのに、テオフィルは本当に優しい。 彼は騎士道精神に満ち溢れている。 こんな立派な人が夫になってくれただけで、いつも感謝しているのに、その上、愛してくれと贅沢は言えないはずだ。
ミレイユは気を取り直して、心配げな夫に微笑みかけた。
「思い出していたの。 初めてあなたやモンシャルム子爵にお会いしたときのことを。
子爵はまばゆいほど美しかったし、いろいろ気を遣ってくれました。 それなのに私は、あの方の後ろにいるあなたのほうが気になった。 そのときはなぜかわからなかったけれど、今になると理解できるの。
あなたは小さい椅子にうっかり座って、身動きが取れなくなっていたわね。 なかなか立てなくて、照れくさそうな顔をしていた。 でも、とりつくろおうとしなかったし、子爵より前に出ようともしないで、静かに立っていたでしょう?
あの姿を見たとき、思った。 この人なら、心から大切にできる。 私がこんなで、華やかな社交をして夫を盛り立てることができなくても、私が努力すればきっと認めてくれるって」
「モンシャルムだって喜んで認めるよ。 彼は君に夢中なんだから」
「そうかもしれないけど、いつか熱がさめれば、きっと物足りなくなるわ」
悟った口調の妻を、テオフィルはじれったくなって軽く揺すぶった。
「君は情熱に身を任せたことはないのか? 彼の腕に飛び込みたいと、一度ぐらい思わなかったか?」
その声には、奇妙な切なさが混じっていた。 だがミレイユは気づかず、彼の問いにますます落ち込んだ。
「全然。 どうしてそんなことを訊くの? 私が飛び込みたかったのは、あなたの胸なのに。 でもあなたは、最初の日に挨拶に来てくれたきりだった。 だから私……」
「なんだって?」
それは、普段のテオフィルとはまるで違う、ひびわれた声音だった。 次いで、腕を掴む指に力が入ったので、ミレイユは目を丸くした。
「え? 驚いてる? だって私、子爵でなくあなたに言ったでしょう? 私から申し込んでしまったのよ。 子爵のほうがいいなら、そんなこと、するはずないでしょう?」
「ああ……」
ふるえる溜息と共に、テオフィルはミレイユを抱き寄せた。 乱暴なほどの力で、乱れた髪がミレイユの胸に押し付けられた。
「愛しい君……今の言葉で、どんなにわたしが幸せになったと思う……?」
愛しい? 本当にそう言ってくれた?
感きわまって、ミレイユの心臓がはちきれそうになった。 そして、夢中で夫の頭を抱え、頬ずりした。
「私もよ。 私も! 大きくて、頼もしくて、世界の誰より大好きなあなた」
テオフィルの顔が上がり、二人はうっとり見詰め合った。 やがて唇が自然に近づいて、熱く合った。
その瞬間、遠雷のような音と共に、頭上から何かが降ってきた。
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