表紙

 -68- 陰からの声




 そのとき、背後から声がした。
 低く押さえた奇妙なかすれ声で、聞き覚えがなかった。
「あなたの結婚相手は、邪悪な人殺しだ」


 ミレイユは、急いで振り向こうとした。
 すると、奇妙な声に素早く遮られた。
「振り返るな! こっちを見ようとすれば、犬を撃つぞ」
 ミレイユは凍りついて、すぐ横で荒く息をついているシュシュに目をやった。 犬は遠慮なく首を曲げて謎の人物を見ているが、吠える様子はなかった。
 声はまだ続いていた。
「あなたはここに来たばかりで、何も知らないんだろう? いろいろ教えてやるよ、詳しくな。 明日の午後に西の離れへ来い。 何時なら抜け出せる?」
 息を吸うのも苦しい思いで、ミレイユは反射的に答えた。
「三時なら」
「よし。 待ってるからな。 必ず来るんだ」


 向こうでレオンと話していたジェレミーが、向きを変えて弾むような足取りで駈け戻ってきた。
「奥方様! 喜んで曳き車を作るそうですよ!」
 満面の笑顔で近づいてきた少年に、ミレイユは早口で囁きかけた。
「待って。 私の後ろに……」
「え?」
 ジェレミーは不思議そうにミレイユの背後に視線を動かした。
「後ろに、何か?」
「誰かいる?」
「いません」
 ようやく息がつけるようになった。 ミレイユはよろめくように体を回し、後ろに人影がないのを確認してから、犬の首に紐をつけて、一緒に歩き出した。
「ここの土は柔らかいわね」
「ええ、昨日雨がふったせいで」
「後ろに誰かがいたの。 足跡があるかしら」
 二人は木陰や茂みを注意して探し、さっきミレイユが立っていたところの斜め右横に立つイチイの木の裏側に、新しい靴跡を見つけた。
 ジェレミーはその跡に自分の片足を近づけて、大きさを確かめた。
「大人の男ですね。 たぶんブーツだ。 踵がしっかりついてるから、上等な作りの靴ですよ」
「誰かがここに隠れていたんだわ」
「そして奥方様を覗いていたわけだ。 密猟者だとしたら、ずうずうしい奴だ。 シュシュに尾けさせてみましょうか?」
「この子にできるかしら。 まだ仔犬なのに」
「親は猟犬ですからね。 試しにやってみましょう」


 ジェレミーに指示される前に、好奇心の強いシュシュは湿った足跡をくんくん嗅いでいた。 そして、ジェレミーが掛け声をかけると、踊るように張り切って歩き出した。
 ミレイユは半信半疑で、シュシュに引っ張られるように歩き出した。 すでに中型犬ぐらいの大きさに成長したシュシュは、鼻先を地面につけたまま、どんどん進んでいった。
 二人と一匹は、やがて庭園の端に出た。 そこには馬の蹄の跡があり、落ち葉が蹴散らされていた。
「ここで馬に乗って逃げたんだ。 密猟者じゃないですね。 奴らが上等な馬なんか持ってるわけがない」
 密猟者じゃない。 密告者だ。
 ミレイユは額に手を置き、気分の悪さをこらえた。









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