表紙

 -60- 逃げた犯人





 従僕が戻ってくるまでの短い間、子爵は落ち着きなく、小さな円を描いて歩き回っていた。
 ミレイユは夫の傍を離れず、肩にかかった彼の腕を頼もしく思いながら、檻に閉じ込められた虎のような子爵の動きを見守っていた。 モンシャルム子爵のほうがテオフィルよりやや低く、体格もすらりとしていて圧迫感がないにもかかわらず、ミレイユは子爵のほうが怖かった。
 やがて、訓練された従僕には珍しく、ばたばたという足音が戻ってきて、息切れした声が叫んだ。
「ジェデオンさんがいません!」
 戸口と庭にいた人々が、一斉に振り向いた。
 若い従僕は息を弾ませながら、早口で報告した。
「ベットによると、大きな鞄を抱えて裏口から抜け出して、りんご園の向こうにある離れに入っていき、真っ黒な馬を連れ出して、乗っていったそうです」
 ミレイユは、すぐに思い当たった。
「なんてこと。 エクトールだわ!」
 温厚なテオフィルの額に、初めて青筋が盛り上がった。
「わたしの馬を盗んだのか!」
「たぶん、他のものもいろいろ盗ったんじゃないかと思いますよ」
 マルシャン夫人が逞しい腕を振りながら、そう呟いた。
「それで、ジェデオンはどっちの方向へ向かったと?」
「トネール川に向かっていったとか。 たぶんサン・ギヨーム橋を渡って、リールのほうに逃げるつもりでしょう」
「リールからカレーへ行って、イギリスに高飛びか」
 テオフィルは唸り、庭に立ち尽くす子爵に顔を向けた。
「あなたが来たおかげで、旧悪がばれると思って逃げ出したようだ。 後を追うので、これで失礼する」
 子爵は険しい顔で答えた。
「わたしも一緒に行こう。 本当にその男が元凶なのか、確かめたい」
「馬車で来たのか?」
「いや、馬を飛ばしてきた」
「ではその馬は疲れているだろう。 ジャック」
と、さっきの従僕を呼んで、
「子爵を案内して馬屋に行って、リュカに用意させてくれ。 アキレスがいいだろう」
「かしこまりました」
 ジャックは庭に下りて、子爵を先導していった。


 夫と部下に子爵まで加わった一団が、逃げた家令を追跡していった後、ミレイユはジェデオンが自分用にしていた事務室に入った。
 中は突風が吹き荒れたようだった。 引出しがいくつも開けっ放しだし、箱が床に落ちていて、つまずきそうになった。
 床に散らばった書類を拾い上げて揃えながら、ミレイユは暗い気持ちになった。 その中に混じった請求書の日付は、テオフィルがミレイユの件でパリに出かけていた時期になっている。 ジェデオンは主人がいないのをいいことに、勝手に高額な買物をして、つけを払っていなかったようだ。
 書類を片付け、引出しを閉めてから、ミレイユは部屋を出て、家政婦役を兼ねている女中頭のマルロー夫人に言って、鍵をかけてもらった。 ジェデオンの不正の証拠を、きちんと残しておかなければならないからだ。


 食事を用意して待っていると、追跡団は二時過ぎになって戻ってきた。 玄関前で迎えたミレイユは、一行が靴墨を落としたテオフィルの愛馬エクトールを連れていたので、ほっとした。
 だが、次に現われた馬の背に、男の体がうつ伏せに乗せられているのを見て、息を呑んだ。
 テオフィルが馬から降りて、ミレイユの手を取った。
「ジェデオンだ。 橋を渡ったところで、エクトールに振り落とされたらしい。 見つけたときは、もう息がなかった」
「天罰です。 殿様の大事な馬を盗んだりするから」
 追跡に加わったジェレミーが、激しい口調で言った。








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