表紙

 -52- 微妙なずれ




 医者を探しに行ったトマは賢く、伯爵がたまに呼んだかかりつけの医師が誰か、ちゃんと覚えていた。
 それで、二十分もしない間に、壮年のグレミヨン医師が、馬に乗って訪れた。 仏頂面をしたジェデオンが、グレミヨンをテオフィルの寝室へ案内した。


 その間ミレイユは、不気味な音を聞いたと最初に言い出した二人、エマとベットに、改めて詳しい状況を尋ねていた。
「あそこに二人で行ったのは、なぜ?」
 仲良しらしい彼女らは、顔を見合わせた後、口々に説明した。
「とりかぶとがあそこで咲いているって聞いたんです。 うちのおばあちゃんが、心臓の具合が悪いと言ってたから」
「前に通ったとき私が見たんで、ベットに教えてあげようと思って、一緒に行きました」
 小さな林だが、伝説があるため普段は人の出入りが少ない。 二人は用心して、ぴったりくっついて入っていったのだという。
「でも、あの小屋に近づいたときに、ひどい音が聞こえたんです。 低くて、震えてて、谷の底で狼が遠吠えしてるみたいな」
「見回したら、逃げていく後姿が見えました。 そりゃあ大きくて、茶色で、全身に毛がはえてるようで」
「頭も人間みたいじゃなかったです。 角が飛び出してました。 そんなふうに見えました」
 思い出しただけで、二人はまた首をすくめ、おびえはじめた。


 誰かが変装して、小屋から注意をそらそうとしたのではないか。
 ミレイユはそう思いはじめていた。 伯爵を行方不明にして、小屋の地下で人知れず死なせてしまおうという計画が、進行していたのだ。
 上の空で一階の広い廊下を歩き、手近にある椅子に腰を降ろすと、ミレイユは更に考えた。
 犯人たちは、なぜもっと簡単なやり方を取らなかったのだろう。 外出した伯爵を銃で撃つとか、馬から落として殴るとか……。 そんな手軽な方法を取らないでくれたからこそ、命を救うことができたのだが。
 そうだ、馬!
 伯爵の愛馬エクトールを思い出して、ミレイユは飛び上がった。 黒鹿毛で、額と前足の先が白い立派な馬だ。 エクトールは今、いったいどこに!


 ミレイユが椅子から立って、階段に向かったとき、ちょうどグレミヨン医師が診察を終えて降りてくるところに出会った。
「ああ奥方様、園遊会でお目にかかりましたな」
 確かに顔に見覚えがあった。 ミレイユは無理に笑顔を作って、夫の容態を訊いた。
「左足首を捻挫し、腰も強く打っておられますが、骨に損傷はございません。 ただ、まる二日放っておかれたため脱水症状があり、栄養も足りませんから、消化のいいスープなどを飲ませてさしあげてください」
「わかりました。 ありがとうございます」
「念のため、明日もう一度往診に来ます。 しばらくは安静になさってください」
 そう注意してから、医師は温かい目になって、若くきゃしゃなミレイユをじっと眺めた。
「奥方様が伯爵を見つけられたそうですね。 大したものだ。 感謝されていましたよ」
 ミレイユは不意を突かれて、頬を赤らめた。


 医師を玄関まで見送ってから、ミレイユは階段を上って夫の部屋に出向いた。
 テオフィルは清潔な寝巻きに着替え、大きな天蓋付きのベッドにゆったりと横になって、窓の外を見ていたが、妻が入ってきたのに気づくと体を起こそうとした。
 ミレイユはあわてて近づき、そっと肩を押さえた。
「動いてはだめ」
「もうだいぶ気分がよくなったよ。 エールを飲ませてもらったしね」
「喉が渇いていたのに、早く気がつかなくてごめんなさい」
「大丈夫だとも。 前に山の中で迷って、三日間飲まず食わずだったことがある。 昔聞いた話では、六日か七日ぐらいは生きていられるそうだ」
「そうは言っても」
 ミレイユは、頬がこけた感じのテオフィルの顔を、心配そうに撫でた。
「あなたを襲った人間は、馬から引き下ろしたわけでしょう? どうやって……」
「いや」
 テオフィルは枕にもたれて、ゆっくりと言った。
「まだ馬には乗っていなかった。 馬屋へ歩いていく途中で襲われたんだ」








表紙 目次 前頁次頁
背景:Star Dust
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送