表紙

 -49- 孤独な戦い




 そのかすかな声は、さっきミレイユが耳にした異様な音とは異なっていた。
 だが、庭師たちはたじろぎ、マッティが歯の隙間から押し出すように呟いた。
「騙してるのかもしれないぞ。 俺達を誘い込んで、中で食っちまおうとしてるのかもな」
 彼らが顔を見合わせている間、ミレイユだけは穴の近くで身じろぎもせず、耳を傾けていた。 やがてもう一度、声が聞こえた。
「……ここだ、ミリー ……!」
 ミレイユは飛び上がった。 最近ときどき、気分がよくてふざけたい気分になったとき、ミレイユをミリーと呼ぶ人間が、この世に一人だけいた。
「テオ! あなたなのね? 落ちたの? 今すぐ行きます!」


 たちまち、穴の周りは大賑わいになった。 夫が心配なあまり、真っ先に階段を下りようとするミレイユを、皆が引き止め、まずレオンが、ついでマッティが、片手に道具を握りしめ、もう片手で松明を振りかざしながら、慎重に石段を降りていった。
 その後、止める手を振り切って、ミレイユが降りた。 続いて助っ人の三人が穴に入り、あと二人が小屋の見張りに残った。


 松明の火に照らされたのは、二十平方メートルほどの空間だった。 床には平らな石が敷き詰められ、天井は木材と太い柱で補強してあって、頑丈な作りだ。 石段の前には通路が伸びているようだが、鉄の格子戸がはまっていて、牢獄のように錠前がかかっていた。
「テオフィル!」
 ミレイユが叫ぶと、格子のずっと奥から、かすれた声が伝わってきた。
「ミレイユ、こっちだ」
「錠がかけてあるの!」
「古くて、もう弱っているはずだ。 固い物でたたけば、きっと壊れる」
 すぐレオンが鉈〔なた〕を振り上げて、錆びた金属に叩きつけた。 ぎしっと嫌な音がした直後、錠前はねじれて飛んだ。
 レオンが格子戸を開いたところで、ミレイユはやみくもに走り込んだ。 あわてたマッティが、松明を前に差し出して、すぐ後に続いた。
「足元に気をつけてくだされ、奥方様!」
 幅一メートルほどの通路は、蛇のようにうねうねとしていた。 地盤のやわらかいところを掘り進んだのだろう。
 足元は石畳が続いていて、危険な窪みや引っかかりそうな木の根はなかった。 三十メートルほど走ったとき、不意に狭い通路が広がり、入り口よりずっと広い部屋に着いた。
「これはこれは」
 マッティが口を開けて、松明をぐるりと回した。 その光につれて、壁際の棚に整然と並んだ酒の瓶が、次々と視野に現われては消えた。
「すごい酒倉だ」
 ミレイユは棚など目に入らず、下ばかり視線を凝らした。 そして、遂に見つけた。 大きな棚の角付近で、樽にもたれて座っている夫の姿を。
 つんのめりそうになりながら、ミレイユはテオフィルに走り寄ると、膝をついた。 なんと彼は下ばきしか身につけておらず、広い胸がむき出しになっていた。
 ぐったりとして立てない夫など、これまで想像もできなかった。 ミレイユは半泣きになって、反射的にケープを取って彼の肩を覆った。
 するとテオフィルは薄目を開き、口元をほころばせた。
「いい匂いがするが、わたしには小さすぎるな」
 マッティが怒りに顔を真っ赤にしつつ、粗末な上着を脱いで、ケープの上から伯爵に着せかけた。
「汚くてすいませんが、ここは冷えますから」
「ありがとう」
 それから彼は、苦労して右手を上げると、ミレイユのかすかにふるえる手を取って、唇に持っていった。
「見つけてもらえるとは思わなかった。 いろいろ頑張ってはみたが。 君は土を通してここが見えたのか、わたしの天使?」









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