表紙

 -42- 奇妙な事態




 マリオットは、図書室の隣にある小部屋で、様々な大きさの紙束を整理していた。
 ミレイユが扉を開けて覗くと、彼は驚いてすぐ立ち上がった。
「奥様」
「ごめんなさい、お仕事中に」
「いいえ、伯爵がパリへ行っていらっしゃった間に溜まった書類を、種類ごとに分けておいてくれと言われまして」
「そう言い置いて出かけたんですか?」
「いえ、その前です。 昨日の午前中に」
 ミレイユは後ろ手に扉を閉め、耳の早いジェデオンが通りかかっても困らないようにしてから、マリオットに近づいた。
「出かけるときに、彼はどこに行くか言い残していませんでした?」
 マリオットの視線が、悲しげになった。
「いいえ、ばかりの答えで申し訳ないです。 伯爵はわたしにも黙ってお出かけになりました」


 ミレイユは二秒ほど口がきけなかった。
 その沈黙を誤解したらしく、マリオットは急いで付け足した。
「わたしは雇われたばかりですから、まだ信頼されていなくても当然です」
「いいえ」
 今度はミレイユの唇から、否定の言葉が漏れた。
「それはおかしいと思います。 結婚して日が浅くても、彼がきちんとした人なのはわかっています。 あなたは秘書で、事務の管理を任されました。 そのあなたに予定を話さないのは不思議だわ」
 それに私にも……。
 ミレイユは思い切って、一番気になっていることを問いかけた。
「あの日、彼は手紙を受け取りました。 とても不愉快な内容だったようだけれど、ご存知?」
 二人の視線が合った。 マリオットがあっけに取られている様子なのが一目でわかり、ミレイユは愕然とした。
「やっぱり。 いったい何が起きているのかしら。 手紙のこともお出かけのことも、知っているのがジェデオンだけだなんて」
「わたしたちは他所から来た人間ですからね」
 マリオットが諦めたように応じた。


 結局、マリオットと話しても不安は収まらなかった。 それどころか、いっそう寂しさと混乱が増した。
 おまけに夜になって、主人のいない屋敷に奇妙な騒ぎが持ち上がった。 洗濯係のベットと台所女中のエマが、いきなり辞めたいと言い出したのだ。
 女中頭のマルローは、懸命に二人を説得しようとしたが、ベットは泣き出すし、エマは貝のように口を閉じてしゃべらない。 困りはてて、ついに夕食の後、ミレイユに報告に来た。
「すみません、下働きのことで奥様をわずらわせてしまって」
「いいのよ。 何のこと?」
 一人ぼっちの味気ない食事の後だけに、相談を持ちかけられたのが嬉しいぐらいだった。 ミレイユは身軽に回廊に出て、マルローが二人の雇い人を連れてくるのを待った。
 エマは頬の赤い元気そうな娘だった。 ベットのほうは青白く痩せていて、洗濯のような力の要る仕事をよくできると心配になるほどきゃしゃだった。
 ミレイユは、自分と同い年ぐらいの娘たちを代わる代わる眺め、そっと尋ねた。
「なぜ急に辞めたいの? ここに不満があるなら言ってちょうだい。 私にできることがあれば直すから」
「いいえ!」
 涙の跡を頬につけたベットが、驚いて高い声を上げた。
「不満だなんて。 私たちとてもよくしてもらってます」
「それじゃ、なぜ辞めるのかしら?」
「あの」
 後は口の奥でもごもごとなって、はっきりした答えが出てこない。 じれたマルロー夫人が、低く叱った。
「ちゃんと言いなさい。 奥様に失礼じゃないの」
 そのとき、無言だったエマが、かぼそい声でしゃべり出した。
「鬼が……」
「え?」
 聞き間違えたかと思って、ミレイユは尋ね返した。 まさか鬼なんて、言ってないはずだ。
 ベットがぶるっと体を震わせ、しぼりだすように話を合わせた。
「鬼なんです。 唸ってます。 それに後姿も……」
「ほんとに見えたんです!」
 遂にエマが金切り声になった。







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