表紙

 -36- やむを得ず




 それから数日間、平和で楽しい日々が続いた。
 時は夏から秋に差しかかるころだった。 館の脇を流れる川に魚の影が増え、新鮮な餌を求める鳥が、群れをなして木々の間を飛び回った。
 様々な音と光と風の中を、ミレイユは仔犬と共にほぼ毎日出歩いて、自然の美しさにひたった。
 仔犬はメスで、シュゼットと名づけられたが、二日間で名前が縮まってシュシュになった。 活発だが性格はおだやかで賢く、ミレイユのようなおとなしい貴婦人が飼うにはぴったりの犬で、妻が喜ぶ様子を見てテオフィルも大いに満足だった。


 やがてテオフィルは、ミレイユに乗馬を教えはじめた。 厩舎にいる一番静かな馬に鞍を置き、平らで地面が柔らかい野原を選んでゆっくり歩かせた。 もし万一落馬したときの用心だが、ミレイユはすぐ高い馬上に慣れ、うまく手綱を取れるようになった。
 テオフィルは、上手に時間を振り分けて行動していた。 朝は妻と乗馬に行き、午前中に領地を回ったり管理人と打ち合わせをする。 領地の境界線問題は帰ってすぐ片付けたので、午後はのんびり友人を訪れ、社交にあてられるようになった。 物を買いに行くこともあった。
 ミレイユは夫についていかなかった。 屋敷の人たちには親しみを見せても、まだ人見知りは続いていたし、女性には珍しく街歩きや買物にあまり興味がなく、服も最小限あればいいという実用派だった。
 それでかえって、近所の好奇心は増した。 美しいと評判の新妻をいつまで隠しておくんだ、と冗談まじりに非難されて、テオフィルは困った。 はにかみ屋のミレイユが、一人でおひろめ用の晩餐会や舞踏会を開けるとは思えない。 といって、代わりに準備を手伝ってくれる親戚の世話焼き奥さんは、一人もいなかった。


「これから良い季節になるね」
 学校で習った刺繍を使ってハンカチに頭文字を入れていたミレイユは、居間の座り心地のいい椅子から窓際の夫を見上げた。
「そうね。 花がますます綺麗に咲くでしょう」
「君も美しいと評判だよ」
 とたんにミレイユの首筋に緊張が走った。
「私が? どこで見たのかしら」
「そう、そこが大事なところだ。 君に逢いたい人が大勢いるらしいよ」
 あせった指先から針がすべった。
「痛っ」
「刺したのか?」
 新婚のとき特有の気遣いで、テオフィルが窓から飛んできた。
「なんでもないわ。 それより、ご挨拶する機会を作らないとだめなのね?」
「だめということはないが」
 隣に椅子を持ってきて座ると、テオフィルは妻の手を取った。
「顔合わせはしておいたほうがいい。 いざというとき助けになるかもしれないから。
 それで、どうだろう。 簡単な園遊会を開いたら? あれなら庭に椅子を並べて、軽食を出すだけでいい。 楽団を雇うか、芸人や占い師を呼べば、無理に話題を探す苦労も少なくてすむ」
 ミレイユは感心して、大きな眼をまたたいた。 まったく何て頼もしい人! ここまで考えてくれるなんて。
 それなのに、恥ずかしいからパーティーを開くなんてできない、とは言えなかった。 貴族で大地主の妻なのだから、社交義務は果たさなければ。






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