表紙

 -35- 予感と仔犬




 そのとき不意に、辺りの景色を灰色がかった霧が覆ったようになった。
 少なくとも、川岸に立っていたミレイユにはそう感じられた。 後で思うと、神経の細い彼女が最初に感じた嫌な予感だったのかもしれない。
 気温まで下がったような気がして、ミレイユはかすかに眉をひそめ、硬い表情で青年の去った方角を見やっているジェルメーヌに話しかけた。
「ちょっと寒くなってきたわ。 帰りましょうか」
「はい」
 二人は肩を寄せ合うようにして、そびえ立つ本館のほうへ急ぎ足で戻っていった。


 昼少し前、小型馬車で出かけていたテオフィルが帰宅した。
 中型のバスケットを背後に隠すようにして、彼は妻を捜しまわった。
「ミレイユ! ミレイユ!」
 そして、一階付近にいないことがわかると、たまたま奥から歩いてきた家令のジェデオンを掴まえて尋ねた。
「妻を見なかったか?」
 ジェデオンは軽く眉を吊り上げて答えた。
「先ほど厨房から出ておいでになり、右の廊下を抜けて温室のほうへ行かれました」
「そうか、ありがとう」
 軽い足取りで温室に向かいながらも、テオフィルはふと思った。 ジェデオンのやつ、やけにミレイユの行動に詳しいじゃないか、と。


 家令の言葉通り、ミレイユは温室に入り込んでいた。
 そこは、縦二五メートル、幅は縦の倍ほどもある立派な温室だった。 高さも相当あり、オレンジやバナナの木だけでなく、立派なナツメヤシの成木まで堂々と植えられていた。
 いつも一緒のジェルメーヌは、珍しく傍にいなかった。 テオフィルは嬉しくなって、大きな木箱に植えた南洋羊歯〔しだ〕の葉を掻き分けながら、妻の背後に近づいた。
 そっと肩に触れようとした瞬間、ミレイユは体を半分回しながら飛びのいた。 おびえた様子を見て、テオフィルは急いで声をかけた。
「わたしだ。 驚かせてごめん」
 すぐミレイユの緊張は解けた。 歓迎の笑顔が愛らしく浮かび、いつものようにテオフィルは心が溶けるような嬉しさを感じた。
「おかえりなさい!」
「ちょっと町へ出かけてきた。 それに借地人を何軒か回った」
 パイナップルの尖った葉をよけながら、ミレイユは夫に近づいて腕に頭をもたせかけた。
「借地人の人たちは、変わりなかった?」
「ああ、みんな元気そうだった。 その一軒でね」
 ミレイユが触れている腕と違うほうの手で、テオフィルはバスケットを背後から回し、少し苦労して蓋をあけた。
 ミレイユは目を見張った。 中に敷いた布の上で、つぶらな瞳を見開いて短い尾をちぎれるほど振っているのは、白の地に茶色のぶち模様のついた二ヶ月ほどの仔犬だった。
「まあ」
 ミレイユは口に手を当てた。 それから息せききって籠に腕を伸ばし、はねる仔犬を取り出して胸に抱いた。
「なんて、なんて可愛い!」
 妻が目を閉じて仔犬に頬ずりするのを見て、テオフィルの顔に会心の笑みが広がった。
「君への贈り物だ。 ブラッドハウンドの仔だそうだが、色から見て他の血も混じっていそうだ」
「種類は何でもかまわないわ。 なついてくれれば」
「もうなついているようじゃないか」
 ミレイユの柔らかい頬を、仔犬は息をはぁはぁさせながらなめまくった。 ミレイユはくすくす笑いながら、背伸びして夫の唇にキスした。
「ありがとう! こんなに嬉しい贈り物はないわ」





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