表紙

 -30- 夜半の到着




 だがジェデオンは明らかに、よく気がきく家令だった。 馬車の扉が開くと同時に、従僕の一人に命じて大きな傘を差して持っていかせたので、伯爵と続いて降りたミレイユは、ほとんど濡れずにすんだ。
 服の裾を軽く持ち上げて段を上がった後、玄関広間に並んでいる使用人たちに笑顔で会釈してから、ミレイユはテオフィルに引っ張られるようにして慌しく二階に上がった。
「挨拶は後でいい。 疲れただろう? 着替えてしばらく休みなさい」
「はい」
 私は気が弱いけれど、体は丈夫なほうなのに、と思いながらも、ミレイユは夫の気遣いが嬉しくて、素直に東向きの部屋に入った。
 そこは、天井が二段になっていて、真中の高くなった部分に花輪が描かれ、同じ模様の絨毯が床にも敷かれているという美しい部屋だった。
 アーチのついた縦長の窓が、壁に整然と四つ並んでいる。 晴れた日なら、そこから朝日が差し込んで、クリーム色の壁を暖かく包むことだろう。
「ここが、私の?」
 うっとりしてミレイユが囁くと、背後から肩に手を置いて、テオフィルが答えた。
「そうだ。 もとは母の部屋だった」
 姿を消したお母様の……。 上品で明るい部屋を見回して、ミレイユはふと思った。 どんな理由で屋敷を去ったにしろ、この部屋の内装を見るかぎり、私はお母様を好きになっただろうと。


 慣例とはちがい、テオフィルの部屋は廊下を挟んだ向かい側だった。
「父は昔気質〔むかしかたぎ〕でね、自分の寝室を西翼にしていた。 なんで愛していた妻と、家の端と端に分かれて住まなくちゃならないのか、わたしにはわからないんだが」
 それは享楽的な十八世紀、貴族たちがよくやっていた習慣だった。 たぶん愛人を連れ込むのに楽なようにだろう。
「つまり、この部屋は独立しているのね?」
「そういうことだ。 隣はブードワール(婦人用控え室)になっていて、そこで行き止まりだ。
 じゃ、ゆっくりお休み。 今夜の夕食は女中頭のマルロー夫人に任せるから、君は二時間ほどしたら下へ降りておいで」
 ミレイユは感謝して、背伸びをすると夫の頬にキスした。 彼はミレイユを抱き返し、頬ずりしてから腕を離した。
「ではまた後で」
 そう言い残し、向かいの部屋に入っていくテオフィルの大きな背中を、ミレイユはじっと見送った。


 すぐにジェルメーヌがやってきて、顔を上気させて報告した。
「立派なお屋敷ですね。 使用人たちも誇りにしてて、逢うそばから自慢を聞かされましたよ」
「暗くて外はよく見えなかったけど、中は本当に立派ね。 いつ頃建築されたのかしら」
 問いというより独り言で言ったのだが、耳の早いジェルメーヌは、すでに誰かから聞き出した話を披露した。
「前世紀の初めだそうです。 ただ、歴史はもっと古くて、十三世紀にはもう石の砦があったとか。 何度も立て直されたんでしょうね」
「そういえば」
 ミレイユは耳をそば立てた。
「水の流れる音がしない?」
 二人は顔を見合わせ、同時に窓辺へ駆け寄って、押し開いて下を見た。
 すると、屋敷のすぐ裏手、十メートルも離れていない所に、闇夜の中でもひときわ暗く動いている流れがぼんやりと見えた。






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